上野戦争前夜

2020年08月03日
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江戸_幕末
『桐野利秋の欠指』のスピンオフです。スピンオフ!大袈裟!(笑)
桐野とはほぼ関係のない話ですが4回程ありますので、どうぞお付き合い。
これは6月末に書いた話。

*****


桐野利秋の指(4)

史料編(2)『慶明雑録』所収史料から見る桐野襲撃の状況


連載第4回と被ります。
この話を書いていた時、上野戦争、彰義隊の話も少しですが目を通しました。
江戸無血開城から上野戦争に至るまでの約1ヶ月、彰義隊による新政府軍の兵士への襲撃があちらこちらで起こっていまして、時期的に見て桐野が神田三河町で襲われたのもその一環であったと思います。

ただ薩軍としては桐野と近い時期に起きた小銃3番隊の3人が彰義隊に襲われ死亡した事件の方が大きかったようです。
サイトでも書いたのですが、西郷隆盛の大久保利通宛書簡、肝付郷右衛門書簡、篠原国幹の日記等にも出ていて、更に薩軍から大総督府に報告され、大総督府は江城日誌にそれを記して発行している。
恐らく他の人の書簡等にも出ているのではないかな。知らないだけで。

江城日誌は維新期に新政府が発行した官版日誌のひとつですが、その中で有吉庄之丞、湯地次右衛門、有馬早八郎ら3人の斥候が根岸辺りで彰義隊に襲われたとあります(第3号/5月13日。復古記にも所収)。
ふーん、斥候かと思ったわけです。

即宗院

上の写真は「上野戦争の戦没者」でも出した京都、東福寺即宗院にある西郷隆盛筆の戊辰戦争戦没者名の碑ですが、ここに名前と当時の階級が載っている。
下段のピンクで囲った所の戦兵の部分に3人の名前が見えています。
戦兵は兵卒ですね。
中井弘によると階級があるとは言え当時は「俺お前」の関係で後年に比べると隔たりは殆ど無いに等しかったようですが。

小銃3番隊は隊長が篠原国幹で、この事件に関する篠原の書簡と日記写が残っています。
書簡は『慶明雑録(12)』、日記は『敬天愛人(7)』に所収されている。
書簡の内容は湯地の親族宛てに篠原が死没した事の報告をしているもので5月27日付、以下。

***

七日昼過より有馬早八郎殿、有吉庄之丞殿、御同僚外出被成候。
然処、夜入過にも相成候へ共帰不被成候に付、直様同組中申合、方々尋方いたし候得共、出先も不相分、尚又探索方之者差出段々に〇手申候処


5月7日昼過ぎから湯地、有馬、有吉の同僚3人で外出されましたが、夜になっても帰ってこられず、その為、同組の者が方々を探しましたが行方も分からなかったので、探索方に探らせた所事情が判明しました。

上野東叡山内後駒込千駄木町と申所にて旧幕脱走彰義隊の者八九人と何故御争論為有之由之処、右同隊之者、追て馳付け三人之御方を取巻き、是非屯所迄御出可被下候様申越候得共、
可参訳無之御断相成候処、


3人は上野東叡山の近辺千駄木町で彰義隊の者8・9人と争論となり、更に駆けつけてきた同隊士らに囲まれ屯所迄同行を求められましたが、行くべき理由などないので断った所、

直に切掛に付暫時は御勇戦為被成由御座候得共、何分敵方よりは漸々に人数も相重み終に御戦死。
誠に武門の誉とは乍申、甚以残念事に御座候 (以下略)

彰義隊士に切り掛られたので暫くは勇戦されましたが、敵方は段々人数も増え、遂に戦死されました。
誠に武門の誉れとは申せど甚だ残念な事です。

***

うーん、現代風に書くと候文の良さが喪失しますね…

篠原は有馬と有吉の遺族にも同様に書簡を送っていたと考えられ、湯地の親類宛がその代表として『慶明雑録』に収録されたと推察されます。
親族宛てなので丁寧に書いてありますが、3人が亡くなった際の状況が割と細かく書いてあります。

以下略の部分に含まれるのですが、鬢髪は本営から送りますとも書かれていて、これはこの3人に限らず他の戦死者についてもこういった処置がとられていたようで、きちんとしているんだよなあ。
つい後の戦争と比較してしまうのだけれど、遺骨の代わりに石ころが帰ってくるような戦争している方がおかしいわな…

それは措いて、これが篠原日記だとどうなるか。

***

五月七日 伍長有吉庄之丞、戦兵有馬早八郎・同湯地次右衛門、夕七時頃より外出、其夜帰営無之、出先同組に尋問候得共、不分明、尤、夜中の上、雨天向れなり、明朝探索に決着す

同八日 早天より探索差出候処、昨七日夕刻、上野辺道行の折、幕彰義隊八連隊の者八、九人、谷中三崎町にて三氏の(に)追付、是非根岸屯所迄被参段、申入候処、可参訳無之、と相断ると、直に八、九人の者共切掛、戦に及び候処、追々賊馳集り、二十名余相成、多勢に無勢、遂に一人被切伏、跡二人も手疵を蒙り、其場切抜、駒込千駄木町観音堂前にて一人は屠腹、残り一人も同断相働、共に賊より発銃にて死候由 (以下略)

***

日記の方はもう少し詳しい。
しかし3人を20人超で取り囲むというのは…
薩軍兵士だけでなく他藩士でも1人2人といった人数を数十人で取り囲んで殺害された例もあり、普通に考えて卑怯の謗りを免れないと思います。

江城日誌に出ている情報と篠原日記の内容は表現もほぼ同じである事から考えて、篠原隊長から薩軍本営へ、そこから大総督府という経路を経て江城日誌で公表されていると考えられます。

有吉は伍長だったみたい(5人の長)。
湯地親族宛では3人が出掛けたのは5月7日昼になっていますが、夜7時とあります。
江城日誌には斥候とあるのですが、行き先が分からない、しかも同組中の仲間も所属長の篠原も行先を知らないとは一体どういう事か。
彼等、本当に斥候だったのか。

『彰義隊戦史』(山崎有信/隆文館/1904)を見るとこうある。

***

十八番隊長西村賢八郎の隊士関規矩守、及ひ十七番隊士数名谷中三崎町に於て、官軍の士三四人酔体にて口論を仕掛けしかば、止むを得ず、終に刃傷に及び、一人を斬殺せしに、余は逃げ出せしを以て、動阪の先き地蔵塚の辺りにて一人を斃し、又駒込千駄木町観音堂前にても一人を切り伏せしが、其の隙に残りのものどもは逸早く逃げ失せぬ。
我隊士も関規矩守を始め両三人微傷を負ひたり、右斬殺せられたる三人は薩藩の兵士にして、有吉庄之丞、湯地治右衛門、有馬新八郎なりしとぞ(四村賢八郎、鷲羽玄遁、関清次郎等の実話)

***

山崎有信は彰義隊に関しては右に出る者なしですが、有馬新八郎は早八郎の間違いです。四村は西村でしょう。
こちらは明治37年発行の書籍ですが当事者から聞いた話が書かれている。
そして微妙に話が違う。
立場が真逆なので当然ですが。

酔っぱらった官軍の兵士3・4人が口論を仕掛けて来たので、やむを得ず斬り合いになったとある。
篠原の話だと「どういった理由でか争論になった」、「上野近辺を歩いている時に屯所に来てくれと言われた」になるわけですが。
そして更に江城日誌だと斥候になる訳です。

正直言って何が事実であったかは不明ですし、これ以上調べる気もないのですが。
出掛けた時間が篠原曰く午後7時、出先を上司同僚も知らないなんて本当に斥候だったのかと思っていたのだけれど、被害者3人、『彰義隊戦史』の書く通りこれ飲みに行っていたのではという思いが拭い去れない…
ただ薩摩の本営から三崎町、結構遠いのですよね。
しかも何があったかと思いきやあの辺り寺と田畑ばかりやぞ。何しに行ってたんや。

しかし一般的に考えて酔っぱらって云々は体裁が悪いわな。
亡くなった側の親族に書く事でもないだろう。
…とも思いますし。

ただ彰義隊の言う「向こうが仕掛けて来たので止むを得ず斬り合いに」というのは、これ以外にもあった彰義隊士による新政府軍兵士の殺傷事件を見ても疑わしいとしか思えない。

まあどのあたりが真実かな、とは思いますなあ。
見る側によって出来事の内容は異なってくる。

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ヒジハラ
Posted by ヒジハラ
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なかむらきりの

七時

「午後7時」ではなく「七つ時」ではないですか?「つ」抜きで書いたと思います。当時の西洋式の時刻表示は「時」ではなく「字」のほうが普通だったかと。次の日の日記は「昨七日夕刻」ですし、「七つ」なら午後4時頃ですから。

やはり花のお江戸の観光がてら飲みに行ったのでしょうね。(笑)
「江城日誌」も家族への手紙と一緒で、忖度したかもしれません。
逃げないで戦っていますし。

2020/08/04 (Tue) 00:52

なかむらきりの

ごめんなさい。

変な事を書きました。
篠原の日記を見ましたら、閏4月辺りから篠原の時刻表記は午前○時、午後○時に変化していたのですね。
陰暦5/7は6/29ですから、「夕七時」はまだ少し明るいわけですから、おかしくないですね。
ちゃんと確認しないで失礼なことを申し上げました。お許し下さい。

2020/08/04 (Tue) 02:23
ヒジハラ

ヒジハラ

>なかむらきりのさん

そうなんです、篠原いきなり不定時法から定時法になっていて、一体何があったのかと。笑
ややこしいなあと私も思っていましたので、どうぞお気になさらず。

斥候ではなく飲みに行ったというのが恐らく真相であったと思います、これ。
あの時期にわざわざ敵の本拠地近くにまで遊びに行くと言うのも中々だなとは思いますが、そのまま事実を書くには”朝廷軍”としても薩軍としても体裁が悪かったのだと思います…

2020/08/04 (Tue) 21:13