桐野利秋、とある人物評(13)

ヒジハラ

川上親晴の話です。
桐野の話の筈が脱線していますが、トータルな薩摩の話だと思ってもう少しお付き合いください。

しかしこの桐野連載、意外と読んで頂いているようで自分でも驚いています。
検索で引っかかっているのかな?良く分からんのだけれど。
インスタでとびとびながら更新案内をしているのですが、態々覗きに来てくれる方もいて、これも驚いています。嬉しい。
興味を持っている方が多いのかと。
#人斬り半次郎でしつこく投稿している甲斐があります(お前…)。
子孫の方なのかしらという方からコメントが来てひいっとなったけれど、ドラマを鵜呑みにしていたとあったので、更新宣伝して良かったと思います。笑
しかし、ドラマを鵜呑み、インスタ見てる感じではこれが本当に多い。チガウノヨー…
ドラマは、ザ・ワースト・オブ・チガウー…
おかしいな、お気軽で始めたインスタだったのに…

***

前回、川上は加治木の郷士出身と書きました。
しかしよく分からないのだけれど、伝記では年少の頃は新屋敷郷中にいたとあるのです。
そこで4才年下の村田岩熊と交流があり、その流れで父村田新八とも交流があった。本人の言を見ると中々仲が良かったらしい。

川上の事だけではなく郷中の事については、今一ピンとこないことが結構あります。
排他的であるとは書きましたが、西郷隆盛のように引っ越して郷中が変ったらどうなるのかとか。
辺見十郎太の父が荒田の郷中を整備したという話も、桐野のように住人が少なくて郷中が作れず近隣に通っていたとか、初見時に幕府がもう終わろうとしている時期にそんなことあるの?と思ったんですよね。笑
もっと整備されているものかと思っていたので。

私の勉強不足は措いといて。こちらをご覧ください。 


2019113


写真は一昨年鬼籍に入られた大久保利通研究の佐々木先生の論文「西南戦争における西郷隆盛と士族」(人文学報、京大の方だと思う。書き逸していて不明)より川路利良の言です。(ひらがなに直し、句読点を打ちました)


人として自助独立の権なく、己れ生涯の利害を人に任してせられるは、牛馬に均しからずや。
君等尚陋習を脱せず、旧城下士族に欺かれ、是に牛馬視せらるるのみならず、終には天下の大罪に陥らんとす。
吾輩是を知りて黙止するに忍びず


私学校に入った、或いは入ろうとしている郷士に対して川路が呼びかけた言葉。
論文中にも「身分差別を、これ程わかりやすく表現している史料は珍しい」とありますが、そうでしょうね。
これもピンとこないと思うんですよ。どれだけ身分差別があると言われても。
実際これを読んだとき私も驚きました。ここまでかと思って。

川路は城下士が主力である私学校党への敵対心を煽ろうともしているだろうから、その辺りは多少の勘案がいるのではと思うけれども、城下士は郷士を牛馬視、今では到底許されることではありませんが、これは事実であったでしょう。
脅迫されて西南戦争に参加した郷士は多いのだ。
牛馬と思っているのなら、そらー私学校党からすれば従軍して当然だっただろうけれど。

「各自帰郷して大義名分を説き、私学校に入門して前途を誤ることないよう、郷民を勧説しよう」
実際に掛け合った声はそんな生易しいもんじゃなかっただろうなと思うのですね。


これが当時の鹿児島の郷士の立ち位置で、今から思うような生ぬるい差別ではなかったと思います。
だから彼等を同じ職場になんて放り込めないんですよ。
城下士は軍隊に、郷士は警察に入っている。

昨年のドラマのレビューで、”友人・別府晋介(城下士)と中原尚雄(郷士)”にムリがあると書いたのは、こういうことがあったからです。
中原も城下に行くたび喧嘩をして帰ってきたという話が残っているようだし。
別府が中原と仲良くできるなら、加治木区長の時に加治木はそんなに揉めなかっただろうとも思うわー。

私たちが見ている幕末維新の薩摩人は主として城下士。城下士たちのストーリーです。
この身分の上に西郷隆盛も大久保利通も立っている。これは案外重要だと思う。
『薩摩の密偵桐野利秋』冒頭に、彼等は城下士であったからこそ出世が出来たとあるけれど、これは本当にそうだと思います。
そう考えたら川路は凄いよね。

そしてそうした社会状況が普通である中で生まれ育った西郷や大久保は、全くそうした差別意識はなかったのだろうか、という疑問は、当然ながら生じますが、これは措いておいて。
(※差別していたと言っているのではありません。為念)

話を戻しますと、そうした厳然とした差別がある薩摩の武士社会で、郷士の少年川上が城下士の郷中に入れたのかという素朴な驚きが私にはあるのです…
川上が特種例かも私にはわからないので、何らかの事情があれば許される等の抜け道?があるのかもしれませんが。

まあ、そうした一面がある社会だと思って以下お読みください。

***

加治木の郷士出身の川上親晴ですが、私学校が出来た際に喜び勇んで入学しております。
加治木に私学校分校を創設した当事者でさえありました。
しかし私学校の自由のない閉鎖性と横暴に耐えかね、すったもんだの末に退校しています。

西南戦争の際は反私学校の立場。
戦争直前には加治木の友人数人が西郷”シサツ”の密偵と帰鹿しておりまして、中原尚雄らが捕まるのを見て、熊本鎮台に状況を通報すべしと密偵となった友人らと鹿児島を脱出しようとして捕まった。
後は安楽兼道と同じ経路です。
大雑把に書くとこんな感じ。

すったもんだの末に退校と書きましたが、この時に西郷隆盛が関わっています。
私学校のやり方に反発して退校したいと考えた加治木の私学校生徒がおり、川上はその内のひとりでした。
しかし退校したいいや駄目だと加治木内部でも揉め、私学校本校とも揉めまして、最終的に西郷に話が行った。

大西郷なら話を聞いて公平に円満に調停してくれるだろう。
川上らはそう思っていたけれど、豈図らんや西郷は全く聞く耳を持たないどころか、揉める相手の肩を持ち、
「そんな考えを持っているのなら獅子身中の虫だから私学校の為にも良くない、速やかに退校せよ」
そう言われてしまった、とある。

随分不平不満を持ったけれど、西郷にそう言われてしまうともう行き場が無いわー。
実際に退校したのは川上を含め20名以下のようですが、こうなってくるともう実質村八分である。
終いには身の危険さえ感じるようになって、これはもう有力者の庇護を受けるしかないと頼った先が吉田久部山で開墾事業に従事していた桐野利秋でした。


ハイ、続く。

くどくどしくて申し訳ない。
ただ川上の話を引用するには、その背景がいるのではと思って。
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