桐野利秋、とある人物評(11)桐野の指

ヒジハラ

※このページの内容を関して※ 2019/1/9
前エントリ、当エントリへのコメントにて未見資料の内容や性格について教示頂き、桐野が失った指の箇所と本数については、更なる調査と再考の必要があると考えます。
こういう資料、こういう推測があるなという程度で止めおいてくださいませ。

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人物評ではないですが、勢いに乗じていきます。
なかむらきりの様にコメント欄で言及頂きまして、そういや書いたことなかったなあと。随分昔に創作の解説で書いただけだわと。笑
コメント欄をほぼトレースする形になりますが、ご容赦を。

***

桐野利秋ですが、一指が欠けて無いのですよ。
小説や一般書でも言及されているものは割とあるのですが、なぜかあまり注目されないというか、さらっと流されて終っているのが私としては結構不思議に感じている。
それで、この一指が左右どちらの指かという話です。

まず指を失うに至った経緯です。

『少年読本』『西南記伝』によると、上野戦争の直後、神田三河町で河野四郎左衛門と風呂に行った帰りに剣客鈴木隼人他2名に襲われている。
『少年読本』によると桐野はその時トンビカッパを着ていたとあります。

トンビカッパって分かります?インバネスコートです。
とんびコート、二重まわしとも言って袖なしのコートの上にケープを羽織るような作りになっている。こういうの(別窓)
袖がないので和装でも動きを邪魔されず、明治から戦前にかけてはよく着用されていたのですが、この頃から着られていたのですね。


20190107


しかしインバネスで対処が遅れたかな…
それでも抜刀して刀を交え、少し後退しようとした際に石に躓いて倒れてしまうのですが、それに乗じて相手を斬っています。すごいね。
しかしながら相手もさるもので、仰向けになりながら横様に桐野の胴を薙ごうとした…
その刀を受け損ね、桐野は結果として一指を失うことになります。
はい、この両方には一指を失う、とあるだけなのです…
そしてこの書き方だとこの時に指を落とされたような印象を受けます。
それはちょっと違う。

桐野の指欠落に言及している資料は複数あり、これは事実です。

その怪我を診た医者がおりまして、関寛斎といいます。蘭方医。
私はこの方の事を殆ど知らないのですが、当時高名な方であったようで、戊辰戦争の際は戦傷者の診療に当たっていた。
桐野の指については『敬天愛人』所収論文「詮議の検証「益満休之助の死傷」と「中村半次郎の刀傷」関寛斎これを診る」に詳細が出ています。
ここで紹介されている「横浜軍陣病院日記」に「刀傷、右掌右指 中村半十郎」(5月19日条)とある。
半十郎?という感じですが、この辺りは論者が間違いなさそうと言うので、それを信じましょう。私も桐野で問題ないと思います。
なるほど右かと思いますね。

もう少し何かないもんかと手の届く範囲で探してみたら、霊山歴史館紀要と関伝記があったので確認しました。
しかし同論文以上の事は分からなかった。笑

これを見ると、桐野が襲撃されたのは5月15日です。
この15日の夜に関が三田薩摩藩邸で初期診療に当たっている。
ただ関が診たのは桐野だけではなく、上野戦争での戦傷者がメインです。桐野は大勢の患者の中のひとり。

上野戦争は、あまりに犠牲が出る為、西郷隆盛が長州の大村益次郎に
「薩摩兵を全員殺すつもりか」
と迫り
「そうだ」
とあっさり返されて言葉を失った戦争です。
上野戦争当日の混乱の中の患者、名前間違い(聞き違い)もあっただろうと思う。

20日に彼らは横浜の病院に船送されていますが、桐野もこの中におり、翌21日に指切断の手術を受けている。

「シドル」「ウルェス」「ドンク」来て手負人を診察す。且つ中村氏の指を切断す

とあります。
「ウルェス」は薩摩となじみの深い英医のウィリアム・ウィリスです。
ウィリス伝記にもこの部分が引用されていました(海軍脚気の撲滅に尽力した高木兼寛の先生です)。


しかしその一方で、西郷隆盛書簡に桐野は横浜に行っていないと思わしい記述がある。
同論文に紹介されていたのは西郷の5月16日付書簡で、内容は以下。

中村半次郎のこと。
横浜へ向かわせるので、手当の事について連絡していました。
しかし本人が断って来たため横浜へは向かわせません。ご了承ください。

手当するように言っているけれども、当人が断ってきた。
西郷は横浜へは行かせないから、と言っている。え、横浜へ行ってないの?という…
「来た」「行かせない」で史料が矛盾しているので、論文の著者は結構「?」が飛んでいて、解釈の誤解?とあるのだけれど、これ、そのままで合っていると思います。
日付に注目すべきです。


襲撃され、怪我をしたのが15日。
西郷はこの日に横浜の軍陣病院に桐野を行かせようとしました。
しかし桐野はそれを断った。
私、これ、分かる気がします。

重傷者が多く出ている中、桐野自身の傷は指。
しかも自身の不覚で、戦闘で負ったものではありません。
恥、そして重傷者が優先されるべきと思ったのではないかというのが、ひとつ。
そしてもう一点は、横浜の病院に送られる、これは即ち後送です。
戦争に参加できなくなる。たかが指の怪我で。
桐野にとって…というか、薩摩の男にとって、と言ってもいいような気がしますが、これが大きかったのではないか。


上野戦争、彰義隊の戦いがあった日は雨でした。
旧暦の5月15日ですので、新暦に直すと7月4日。梅雨の時期。
この時期にインバネスを着ていたというのなら、出掛ける際は雨か、傘を差さなくてもいい程度の小雨だったのではと推測します。
雨が降っていなくても、ぬかるんではいた筈。
躓いてこけた際に不衛生な泥水の中に手もついただろう。

初診の段階で繋がっていた指を数日後に切断です。
当時外科の方面の診療手術が出来る日本人はあまりおらず、技術も拙かった。
手術が5月21日、新暦7月10日。
時期も時期です。
指、切断せざるを得ない程傷が深かったのではなく、初期的治療の段階で放置した為、腐ってある程度の規模を切断せざるを得なかったのではないか。
破傷風かと思ったけれど、どうだろう。
破傷風だったら指だけでは済まない気がする。


西郷が中村を横浜へ行かせないと連絡した16日は良かったのでしょう。
しかしその後傷が悪化、20日に船に乗せられ横浜へ行き、21日に指切断の手術を受けた。
そう考える方が自然です。
別に何もおかしい事は無いよね、これで。


で、関関連の資料では右になっているのだけれど…
同論文にも書かれているのですが、「他の殆ど(※の資料)は、左となっている」んですね。
というのも、西南戦争終結後に薩軍幹部の遺体が検案されていましてその検案書があるのですね。
そこには「左中指旧断切跡」とある。

困る。笑

つづく!
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Comments 4

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ジゴロウ  

びっくりしました…
関寛斎が、ここに出るなんて…
松本良順が北越戦争にいた事を始めて知った時くらいの衝撃です。
この人はこの人で面白いので、
司馬遼太郎の「胡蝶の夢」
徳富蘆花の「みみずのたはこと」
とか、お時間あったら、是非読んでいただきたいです。

それにしても桐野、オーデコロン臭いとか、オシャレ軍服のイメージあったんですが、やっぱり薩摩人ですね。
指の欠損なんて、昔、手の爪二枚剥がしてヒィヒィ言ってた自分からしたら、想像だに恐ろしいです。

2019/01/08 (Tue) 02:25 | EDIT | REPLY |   
ヒジハラ
ヒジハラ  
>ジゴロウさん

『胡蝶の夢』!
松本良順だと思っていたのですが、関寛斎も主人公だったのですね!
家にあるのに手つかずです(笑)灯台下暗しとはこの事か…
幕末から抜けつつある時に読むか読まないかで終わってそのままなんです。
私が読んだ司馬さんの幕末ものの最後は『峠』でした(そういう時に読んだので滅茶苦茶記憶薄い…)
少し調べましたが、こういう人物もいるのですね。
当時の方の無私は今とは比較出来ないものを感じます。
教えて頂いてありがとうございます。

やっぱり薩摩人ですよねえ…私もそう思います。
しかし指の爪2枚は辛いですよ…
指の欠損も聞くだに死にそうと思ってしまいますが、足の親指の爪剥がれた状態で途中まで先鋒で可愛嶽突破し、鹿児島まで徒歩で帰る河野主一郎のような人もいますので、こういう人達と比べてはいけません(笑)

2019/01/08 (Tue) 07:45 | EDIT | REPLY |   
なかむらきりの  
一指?二指?

桐野の失った指が右か、左かの方が気にはなりますが、肝付兼武の「桐野利秋略伝」には「抜刀及ばず、左手で刀の柄を把って之を禦ぐ。二指墜ちる。」とあります。私の写し間違いかもしれないのですが、国会図書館の憲政資料室でのコピーがこれまたどこにファイルしたものやら。(汗)
Wikiが必ずしも正しいわけではありませんが、「左手中指と薬指を失った」になっています。注釈の出典の伊藤政夫編「野太刀自顕流-薬丸流-」を読んだことがないので、なんとも言えません。
一指か、二指か、これも謎です。

2019/01/08 (Tue) 22:52 | EDIT | REPLY |   
ヒジハラ
ヒジハラ  
>なかむらきりのさん

ご教示ありがとうございます!
wikiを先程覗いて、二指?薬指?どこからの情報?とちょうど思っていた所でした。
情報源が皆無に近いので流石にこちらでは触れられませんでしたが…
本当にタイムリーです。ありがとうございます。(wiki、全てが間違いとは思いませんが、よく知っている人物で、主観が入り過ぎていたり間違いがあったり、気が付いたら跡形なく書き換えられ…で、自分で裏を取らなければとても人には言えない情報だと思っています。コワイ…)
『野太刀自顕流-薬丸流』、あの書き方だと「手こずった」という位かなと思ったのですが、欠損指について記載があるかもしれませんね。確認した方がいいかな…でも書籍は何を典拠にしているかという…

肝付兼武のお話ですが、成程、確かにそれだと二指欠落の可能性がありますね。
益々原典を確認しなければ、と思います(憲政資料室は広瀬武夫で幕開け広瀬武夫で幕閉じになり、桐野まで行きついた試しが…;;)
襲撃された当時、本当にインバネスを着ていたのなら前を開けていたとしてもとっさに刀を抜けたのかというが、実は疑問としてあったのです。
右手での抜刀が間に合わなかったというのは、物凄く納得します。
動作としては左手でそのまま刀の柄を引き上げる、になりますが、その際受け方とその角度がまずければ、二指落ちるというのもそうだろうと思います。
ただそうだとしたら、前仰っていた通り、益々右手ではありえないと思います…

そして先程アップした(12)で、農人としての桐野利秋を引用したのですが、こちらは明確に1本と書かれていて、うーん…?
信用できるだろうと思える筋の話が錯綜していて、何だか謎だらけですね(苦笑
良く分からない、というのが一番なんでしょうか…orz

2019/01/08 (Tue) 23:57 | EDIT | REPLY |   

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