桐野利秋、とある人物評(10)

ヒジハラ

つらつらと書いていて、土原は桐野利秋は西郷隆盛と距離あるって言ってるし仲悪いと思ってたのかな、人斬りじゃないって言ってるから人斬ってないと思ってるのかな、と思われる方もいると思うのですが、あの、そうじゃないからね。
ついでに言うと池波正太郎も司馬遼太郎も大好きです。小説おもしろすぎるわ。
それとは別に色々と思う所があるだけです。


いつもコメント頂くジゴロウさんとよくこの話になるのですが、全か無かという極端な話ではなくてですね…
桐野は桐野で西郷を尊敬していたと思うし、敬愛もしていたと思います。
ただ桐野以外の西郷を取り巻く人々から感じるような、西郷に対する熱烈さをそこまでは感じないというだけ。
西郷の崇拝者と言われる事が多いと思いますが、そこまでではなかったのでは?という。
別に忠誠を誓った訳でもないだろうと思うし、西郷先生が言うから絶対正しい!絶対にだ!とかそう言うのではないと思う(笑)

桐野は桐野の考えで動いている所があるし、西郷は西郷で幕末の時には結構便利に桐野を使っていた所があると思います(西郷だけではないでしょうが)。
尊敬していたとか人柄を愛でたとかそういう点とは別に、お互いビジネスライクな所があったのでは?と思うのはそういう所…
中井桜洲の伝記(『中井桜洲』横山詠太郎)には、友人であった中井の言として以下があります。


世人は動(やや)もすれば、桐野を目して、篠原と一対(いっしょ)に西郷の股肱のやうに思ふのは、大間違いだ。
桐野は、西郷の乾分(こぶん)でもなければ、西郷は桐野の親分でもない。
桐野は、只一個の棟梁株なのだ。


西郷嫌いで、桐野には随分助けられた中井の言です。
ですので割り引いて聞かないといけない所はありますが、割とこんな感じの距離感でもあったのではないかなと。特に明治。

中井桜洲(弘)は、旧薩摩藩士にしては異色の経歴の持ち主なのですが、中井の話を見ていると西郷からは好かれていなかったと思う。
戊辰戦争に従軍した薩摩人からもあまり良く思われておらず、こうなってくると薩摩の社会は結構きつい…

「西郷先生に詩を書いてもらった!児孫の為に美田を買わず!」
「嘘つけ、武村の立派な土地の所有者なのにそれでも美田を持っていないと?それは西郷の詩ではあるまい。偽筆だろう」

中井、勿論分かっていて言ってます。笑
こういう感じですからね、良く思われないというのは中井の方にも問題がある。
しかしそうした中、桐野には折々に助けられていて、この人が腐らずに世に出られたのは桐野の周旋があったからのようです。
畏友の部類かな。
当時の薩摩の社会で西郷からあまりよく思われていないというのは、かなり致命的だと思いますが、桐野は桐野の判断で動いて中井を助けている。
こういうのを見るとね、やっぱり他の西郷崇拝者とは少し違うように思うんですねえ。


(※土原註:中井は、桐野は)かいなでの粗暴漢にはあらざりきといひ、或いは彼は夙に浪人の輩とも交りて能く世態人情をもあきらめ、兵隊の連中には珍しき通人なりき (少年読本)


かいなは腕ですね。腕任せ力任せの粗暴な男ではなかったということ。
あきらめは「明らめ」です。


大久保利通、川路利良、大山巖、中井弘、川村純義


中井の娘貞子が原敬に嫁いでいます。
後年、貞子の不貞により離婚しますが、中井と原は仲が良かったようです(こちらで書いています。下の方)。気難しい中井に気にいられるのは中々よ。笑

写真は明治6年4月6日撮影。当時大久保は岩倉使節団の副使でした。
この写真はパリを去る大久保の送別会に集まった薩摩人の集合写真。
前列中央の頬杖をついているイケメンが前田正名で、桐野と親交があったようです。
桐野の孫が話を残していて(※桐野には実子が無く、死後に甥を養子に迎えている)、桐野の死後、前田が桐野家に立ち寄った際、筆者の兄利和を見て、


「お前は顔も気性も、利秋によく似ている」と嬉しそうにみつめ、「この子は俺に食いかけの芋をくれた。うまかったなァー」と言われたので、皆大笑いしました。
この人に、父が赤い布に包んだ金太刀を桐箱から取り出して見せていた光景が、今でも私の脳裏から離れません。(『歴史読本 子孫が語る幕末維新人物100』1979.12)


だらだらとすいません。人物評から少しずれてきていますが(笑)
もう少しだけ続きます。

続きに拍手の御返事です。


>大湊の鶏さん

あけましておめでとうございます。
新年早々ご丁寧なごあいさつ、またお心遣いいただきましてありがとうございます。
こちらこそ何卒よろしくお願いいたします。

鹿島精一氏も発起人でしたか!
本当に色々な方が関わった企業だったのですね。感心致します。
確かにあの紅葉館の写真、仲間内の仲の良さがにじみ出ているようで、微笑ましいです。
良い写真だなと私も思います。

龍馬の事は調べていらっしゃる方も、よくご存知の方も多いと思うのですが、それがああだとちょっと…
逃走劇は分かり易くていいなと思ったのですが、それだけにちょっと残念でしたね…
コメント頂きましてありがとうございました!

関連記事

日本ブログ村 人気ブログ

Comments 6

There are no comments yet.
なかむらきりの  
No title

こんばんは。
>前田正名
調べ方が悪いんでしょうが、桐野と正名の接点、関係がさっぱりわからないんですよね。
正名は明治になってからはフランス、帰国したら桐野は鹿児島。
「生きていた中村太郎」事件(?)のときも、嗣子の利義の後見人的な感じで新聞に名前が出てきますが。
それにしてもイケメン過ぎます。(笑)

>もう少しだけ続きます。
他のテーマを希望される方には申し訳ないですが、まだまだいっぱい続けて頂きたいです。
至福の毎日です。(笑) 有難うございます。

2019/01/06 (Sun) 23:44 | EDIT | REPLY |   
ヒジハラ
ヒジハラ  
>なかむらきりのさん

前田、私も謎です(笑
経歴を見ている限りでも被らないですよね…
前田帰国後の様子を見ても帰郷出来るような状況であったとは思えませんし。
可能性があるとすれば幕末かなと思いますが、うーん…
しかし「生きていた中村太郎」!?そんな話があるのですね。時間がある時に調べてみます。

それにしても本当にイケメンですよね、前田。
この写真を始めて見た時は大久保・大山・村田位しか知らなかったのですが、彼らを差し置いてイケメンに釘付けでした。笑

なかむらきりのさんに至福と言って頂けると嬉しいです…
いつも思っていることでも改めて文字にするのは難しいです。見当違いなことを書いていないかなとか、忘れていることも多く、纏まりきらなくて見苦しい…冷や汗が…^^;
しかしいい機会なので何だか気の済むまでになりつつあります。笑

2019/01/07 (Mon) 21:09 | EDIT | REPLY |   
なかむらきりの  
生きていた中村太郎

「敬天愛人」第17号(平成11年)の宮下満郎先生の「正五位追贈の桐野利秋-大正五年の鹿児島新聞から-」の最終ページで触れられています。
<明治四十四年六月の記事に、大津市に住む小関仲太郎なる人物が利秋の義弟として話題を呼んだことがある。>
それで鹿児島新聞を閲覧しました。
記事では「義弟というのはどうも中村太郎らしい」となるのですが、ここで桐野利義の新聞上での談話が衝撃的でした。
中村太郎の墓には遺体が埋葬されていないというのです。
城山の戦いの後に捜したのだが遺体が見つからず、仕方なく墓だけを作ったと言います。
それで、利義と小関仲太郎が会うことに話は進むのですが、その後どうなったのか記事が無く、尻切れトンボで終わってしまいます。
小関は中村太郎だったのか?????
鹿児島新聞も全部が揃っているわけでなく欠号も欠ページもありますから、その欠けたページに書かれていたかもしれません。
大正年間の鹿児島新聞も何か桐野のことが書いてないかと思い、かなり目を通しましたが、私が見た限りではわかりませんでした。
ちょうど鹿児島にいたのか、この記事に前田正名が登場します。
新聞はコピーしたのですが、どこにファイルしたものやら、おまけにゴミ部屋状態で"捜索不能"です。(汗) おおざっぱな説明ですみません。

2019/01/08 (Tue) 02:41 | EDIT | REPLY |   
ヒジハラ
ヒジハラ  
>なかむらきりのさん

大雑把だなんてとんでもないです。
御丁寧に返信頂きましてありがとうございます。

「敬天愛人」を閲覧できる図書館がかなり遠いので数年間隔でしか確認していないのですが、それ私完全に見逃しています。

太郎君、ご遺体が見つからなかった?
城山決戦の終結後、生者死者に対し暴虐無体に及ぶ政府軍兵士の話が残っていますが、その混乱の中で見つからなかったという事は無いのでしょうか…
『歴史読本 子孫が語る幕末維新人物100』の久さんの話からもやっぱり桐野と共に城山で亡くなったのだなと思っていたのですが、ちょっとびっくりな話です。
確かに利義と小関忠太郎、面談したのかどうか、凄く気になります。
鹿児島新聞の欠落部分、余計に気になりますね。
奥常次郎が行方知れずになったというのはちょっと状況が違いますしねえ。
奥は可愛嶽突破の際にはぐれ、戦後に帰鹿したということが当時有名な話であったと『鹿児島之史蹟』にありました。

しかし幸吉、太郎、どう見ても同じ人物ですが、いきなり名前が変っての登場になるのが昔からの不思議で。
今では桐野が復姓した際に中村姓を貰いその時に名前を変えたんだろうと勝手に思っているのですが、どう思われますか?孤児だった子が初めから「太郎」はちょっと考えにくいので…
確か『翔ぶが如く』でもはじめは幸吉、城山決戦の際は中村太郎になっていて、読んだ当時は混乱した記憶があります。笑
…『翔ぶが如く』かな…違う本かも…あれこれ紛れている気がします(すいません

2019/01/08 (Tue) 07:56 | EDIT | REPLY |   
なかむらきりの  
西南記伝

私は最初に読んだ池波氏の「人斬り半次郎」の印象が強すぎ、「幸吉➡太郎」になんの疑問も持っていませんでした。(汗)
司馬氏の「翔ぶが如く」はどうだったか……。(これまた汗)
中村太郎のお墓には経歴は刻まれていても旧名は無いわけですが、「西南記伝 下巻2」の桐野略伝に幸吉を京都で拾って中村姓を与えたとあります。「幸吉➡太郎」と考えて良いのではないでしょうか。
「京在日記」の9/18に常吉、10/22に二郎という僕を置いたとあります。もしかしたら、どちらか一人が幸吉かもしれません。
榎木孝明氏の映画「半次郎」では幸吉ではなく、常吉が出ています。演じたのは田上晃吉氏で「西郷どん」では薩摩ことば指導なれど、中原尚雄役でした。

>奥常次郎
土原様が以前ブログにお書きになられたとき、鹿児島県立図書館でコピーしてきました。タイトルが同じでも出版年が違い内容も違ったものを見て、「土原様が指摘された箇所が無い無い」と焦ったことを覚えています。
遅くなりましたが、ご教示有難うございました。
別府晋介の常次郎宛の武器調達の書簡を見ると、身の回りの世話だけでなく、色々仕事をしていて従僕も大変だはと感じました。お墓の献灯の常次郎、静吉の名前を見ると、桐野との主従関係の強さを思います。

2019/01/08 (Tue) 22:18 | EDIT | REPLY |   
ヒジハラ
ヒジハラ  
>なかむらきりのさん

いきなりで脈絡がありませんもんね。笑
私も初めは何の疑問もなかったのですが、ふっと一体どうなってるのかなと思うと気になりだして…
しかし本当に誰も触れてないのでもしかして何かタブーでもあるのかと(笑)
「西南記伝」の桐野伝、そうなんですそれもあってまあ幸吉=太郎で合っているのだろうとぼんやり思っていました。
「京在日記」は本人の日記ですし、普通に考えたらふたりのどちらかだろうなとも私も思います。
その点では榎木さんの映画は史料の方を取ったかと、やや驚きを持ってみたのを覚えています。
え、中原役だったのですか!それは驚きでした。
ことば指導をされていたら色々な縁がおありでしょうが、中々凄い話ですねえ。

*奥常次郎
そうでしたか~言ってくださればお送りしましたのに!
ブログサイトで挙げている資料関係でもしお譲り出来る物がありましたら(なさそうな気がしますが…^^;)、遠慮なくお声掛け下さいませ。
『鹿児島之史蹟』は関係者の話と地元でなければ知り得ない話が多くて驚きでした。
最早史跡の話ではないですよね、あれ…
従僕も大変、確かに(笑)非常時ですから余計に大変だったかもしれませんね。

私も桐野のお墓に参る度に献灯に刻まれたあのふたりの名前を見て胸が熱くなります。
そしていつも何とはなしに写真を撮ってしまいます。

2019/01/08 (Tue) 23:23 | EDIT | REPLY |   

Leave a reply