桐野利秋、とある人物評(9)

ヒジハラ

幕末では結構な描かれ方をしている『少年読本桐野利秋』続き。
ほらそこ、少年読本に関係ある?とか言わない(笑)
もう暫く付き合い給え。

**


桐野利秋誕生地 


中村半次郎が本当の意味で重用されるようになっていったのは、慶応年間からでしょう。
具体的に言うと長州藩との連絡係、近代風に言えばリエゾン・オフィサー、連絡将校ですかね。
他藩士との交流で得た繋がりがその足がかりになったと思われます。

そもそも土佐の中岡慎太郎、土方久元らと面識があり、薩長同盟(慶応2年)の辺りからは長州の木戸孝允、井上馨、山縣有朋らとの交流が生じ、自藩では小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通、吉井幸輔といった藩の牛耳を取っていた人物と近い。
周囲が当代一流の人物で政治の枢要にも近くなり、取り巻く環境の質が物凄く変わっている。
ブラッシュアップのされ方が半端なかったと思うで。


慶応4年1月に始まった戊辰戦争に従軍して軍人としての頭角を現しますが、戦争開始時は小頭見習という「ん?部下いるの?」というレベルからのスタートです。低い。
小頭でもなく、小頭の見習い。感覚としては下士官かと思います。
半次郎、薩摩で洋風の軍制改革が行われている時に京都にいるので、軍事訓練を受けていないのです。
その状況で国元で調練を受けてきた人々の上に置くというのは、少し難しかったのではないかと。
しかし小頭見習とはこれいかに…
ちょっとよく分からない。


ちなみにこれは異例でしょうが、当時18歳の辺見十郎太が薩摩軍主力、小銃隊の2番隊長です。
3番隊長篠原国幹、4番隊長川村純義、5番隊長野津鎮雄、6番隊長野津道貫。大体20代後半~30代前半でそれなりの活動歴がある。
戊辰戦争当時の基本の部隊単位は小隊ですが、薩摩は中隊規模で小隊と呼んでいます。
1個小隊で大体50~60人規模と見てください。薩摩は120人。
経験のない18歳がいきなり部下120人の隊長に抜擢は凄いよ。抜擢する方も凄いけど。


それはさておき。
その小頭見習がわずか9ヶ月後には軍監、会津藩の鶴ヶ城を新政府軍代表として受け取る迄に昇進。下士官から将校になっています。
これは尋常じゃないです。
短期間でマンガみたいな出世をしているのですね。財部彪以上です。笑

その後藩の軍制改革の際に大隊長となり、明治4年の版籍奉還後には陸軍少将となり、就いた役職としては熊本鎮台司令長官(初代)、陸軍裁判所所長。
少将かよと思われるかもしれませんが、当時日本に少将は6人です。
中将は山縣1人。
西郷が大将になったのは明治6年で、当時は陸軍元帥、参議。

当然ながらそれまでとは責任の重さが変わってきます。併せて言動も変ってくる。
意見書や建言の類もあるし、黒田清隆で知られる屯田兵も桐野の発案と考えられています。
少年読本には以下のような記述があります。


彼(※註:桐野)と旧交あるものは、皆維新前の彼と維新後の彼との間には、多大の差異ありて、幾(ほと)んど別人をみるの感ありしを語らざるはなし。

が地位の変遷は彼をして沈着持重せしめ、維新前の彼と維新後の彼との間には議論見識に於て大いに差(たが)う所あらしめぬ。


同時に維新後には学問の欠乏に苦しみ、その欠点を自認していた為に書籍を読んでいたともあります。
川畑新兵衛という人物が桐野を訪ねた際、桐野の談話が高尚であるのに驚き、
「君は学者となったな」
すると桐野は笑って、
君知らずや、今の世には便利なる翻訳書なるものあり。我は常に之を渉猟するのみ
これは著者春山が川畑から聞いた話です。
桐野、勉強してるんですよ。

僅か10年程の期間でこれですからね。
桐野利秋(明治4年に復姓)、抑々頭が良かったという事があるかと思いますが、経験と地位が人を作っていった好例でしょう。

実務上頗る深謀遠慮、有識者に勝れり、世人之を武断の人と謂うと雖も其の深きを知らざるなり

この連載の初めに紹介した市来四郎の桐野評です。
明治10年時点での桐野は、正しくこうした人物であったと思います。


**


で、です。

どうして明治になってもいつまでも「人斬り半次郎」のままなのかと思うのですが、恐らくこの幕末維新期の桐野の変化というか、変移が言及されないからだと考えます。
出世する、西郷隆盛に重用されるという話はあれど、それに伴って人間としての内容が変わっていくという話は全くされない。
何を為したかも大事だけれど、桐野の場合、評伝や伝記では寧ろここを強調すべきではないかと思う。

中村半次郎は、幕末時に何をしていたのかがいまいち分かり難いです。
というか、よく分からない。笑
だから余計に「人斬り」…実否不明の「人斬り」のままで話が止まるのだろうと思うのだけれど、「中村半次郎」から「桐野利秋」への変化が大きすぎて、一般書を読んでいても整合性が取れないというか着いて行けないんですよ。説明がされないから。

”学が無く”、”西郷の傍で刀を振るっていた”中村半次郎が、そのまま明治10年まで生きている。
そういう感じではないかと思います。
で、それがそのまま西南戦争の桐野利秋にトレースされると…
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なかむらきりの  
川畑新兵衛

「九重の雲」の著者東郷隆氏は、「狙うて候」で村田経芳の生涯を書いています。
あとがきで曾孫の村田経和氏(故人)に会われて、経芳の弟十次郎(篤雄)が十六で他家に養子へ行き、西南の役では薩軍に付いたことを聞いた旨、記しています。
本文P.268に、「篤雄も、今は同藩の川畑勘兵衛方へ養子に入り、新兵衛と名乗っている。」とあります。書き方からすると、篤雄は戦死はしてないような感じです。
「少年読本」で桐野を評した川畑新兵衛は、村田経芳の弟なんでしょうかねえ。村田は桐野と同じ天保9年生まれ。村田と弟の年齢差はわかりません。(文中にはなかったような・・。)
鹿児島では川畑姓って多い感じですし、昔の人の名前は同じようなものばかりですから。
明日までに図書館に返却なんですが、まだ200頁残っています。正直、私には面白くないです。(笑) 「九重の雲」を読んだときも同じ、というか、その時の不満が影響しているのでしょう。東郷氏も桐野を誤解していたようで、栗原氏の「桐野利秋日記」を読んで変わったとか。でも、私には作品はイマイチでした。

「少年読本」をパラパラ読み返したところ、吉原弥次郎の名前が出てきました。(P.88~90)
「吉原は素と彼と踈なる姻戚の間柄」とあり、Wikiを見たら、次女の夫は山本信次郎とあり、びっくり。山本を知っていたのは土原様のお蔭です。(笑) 
このエピソードは吉原ではなく、吉田清成としているものもあり、調べなきゃと思いながらそのままです。

CSのTBSチャンネルで2/20に「海は甦える」を放送します。迷ったのですが、土原様のご感想を読み、契約することにしました。原作は未読。「田原坂」も未視聴。困ったものです。(汗)
長くなり、申し訳ありません。

2019/02/02 (Sat) 22:55 | EDIT | REPLY |   
ヒジハラ
ヒジハラ  
>なかむらきりのさん

『狙うて候』に川畑新兵衛の名前が出てきているとは驚きです。
しかし私この本は本屋であらと思ったきり未読、その上『九重の雲』も積読状態で(^^;
川畑は『少年読本』のあそこでだけさらっと出てきますものね。誰かなーと思いつつ…(笑
春山育次郎が話を聞いている辺り、明治10年以後の生存は確実ですし、もしかしたら本当に村田の弟であったかもしれませんね。
しかし有りがちかな?と思われる氏名の一致で同一人物かと言われると…
本当に謎が多いです。笑

東郷隆さんには広瀬武夫の『魁偉なり』という小説もあります。
結構調べてあるなとは思うのですが、何と言いますか…面白くない(笑
基本的に知っている事ばかりが書かれているので、読みながらのときめきが全然無いというのがあると思うのですが(笑)
事実が羅列されているだけのように思われてしまって、読むというよりさらっとめくって終わりました。

吉原弥次郎、そうだったのですか!
山本信次郎の妻の実家はスルーしていました。
伝記も読んだのですが、全然記憶にありません。公務と信仰の話が多かったので。結婚したとか、その程度の記述だったか…
ウィキによると吉原もクリスチャンであったようですし、そうした繋がりだったのかな?
まさか山本が桐野と超が付くとは言え遠縁になるとは思いもせず。
しかし姻戚関係というのは跡が追い辛くて難しいですね^^;

「海は甦える」は数年に1度程のペースで放送されているのですが、今年あるんですね。
と言いますか、あのドラマレビューをお読み頂いてありがとうございます。恥ずかしい。笑
とはいえ、このドラマは丁寧に作り込まれていてかなり出来もいいです。
原作がしっかりしているというのがあると思いますが、古き良き歴史劇だなと個人的には思っています。

そして私はドラマ始まってすぐの字幕が入る薩摩弁に笑ってしまいました…

2019/02/03 (Sun) 10:19 | EDIT | REPLY |   

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