桐野利秋、とある人物評(8)

ヒジハラ

少年読本桐野利秋 


『少年読本桐野利秋』、これは一度紹介しています。

少年読本と侮ることなかれ。桐野に会ったことがある人が、桐野を知っている人から話を聞いて書いているという夢のような本である。
明治8・9年頃、屋敷があった清水馬場の近所で子供たちが遊んでいる姿を見て、笑いながら声を掛け、頭を撫でて行くのが常だったそうです。著者春山育次郎はその子供のひとり。

またこの評伝は主として桐野と交流があった友人知人の談話が中心になっている。
そしてこの春山、桐野の甥伊東祐信(妹の子)と友人なのですね。
近い親戚…
というか、幼少期から青年期については家族から随分話を聞いている様子で、これは大きい。

桐野利秋、中村半次郎が子供の頃の様子、また青年期の中村家の内情。見ているとこれは大変だったと思います。
半次郎少年は強情で乱暴で、どー見ても勉強が好きではないです(笑)
それを押さえつけるようにして教えたのが外祖父(別府晋介の祖父)になります。

このじーちゃんのおかげで、半次郎は「目に一丁字もない」という状況は辛うじて免れたのですが、父が島流しとなった為、ただでさえ少ない禄(5石…)が召し上げられ、その内兄が没して全ての生計が半次郎の肩に乗ったのが18歳の時。

中村家は流罪人を出した家になりますので、貧苦の下級武士に与えられる藩からの恩典も何も、全くない。母と妹弟、3人を抱えて真実の無収入です。
半次郎が朝早くから、月明かりに頼って深夜まで耕作するという状況になってしまった。
妹曰く、

西郷大久保も年少時に一方ならない艱難辛苦を嘗めている。
けれど、兄は幾年間も自ら鍬を取って奴僕の役に当たり、それでも「神色、快爽勇気凛々として、毫も屈撓するの態をあらはさざりし」。これは恐らく「他にも比類なき所にして、これ当時の世に於ても、尋常一様の人の学ぶ能はざりし

中村半次郎はこの数年で、恐らく尋常ならぬ忍耐を学んでいます。
あと市来四郎も評していた通り、百折不撓とは本当にその通りだなと。
こうした中でも明るさを失わないというのは、本当に天性でしょうね。素晴らしいと思います。

そしてこの畑仕事一方で、暇を縫って剣術の修練を行っていますので、勉強や読書の時間なんてとてもとても。好きじゃなかったら余計だろう。

弟妹が成長すると少し半次郎も楽になり、その頃とある切欠で知り合った城下の士との付き合いを皮切りに上之園方限の若者との交流が始まった。
親しく交わった中には奈良原繁(幸五郎)等がいます。精忠組の面々とは親しかったようですが、精忠組には参加していない。

薩摩の郷中(ごじゅう)は、郷中毎に完結しており他と交流するという事は好まない。
そうであるので、普通ならば排斥されるべき中村半次郎の筈なのですが、青年期の種々の勇猛豪胆エピソードにより、彼らの内では一目措かれ、特に問題なく交流していたみたい。

この時点で幕末薩摩のメインストリームと顔を繋ぐというのは中々のものです。
上之園は、薩摩の数々の人士を輩出した三方限のひとつ(上之園、高麗、上荒田)で、これに加治屋町郷中を加えたら、幕末明治の歴史がなぞれます。笑

しかし同じくですね、この時点で半次郎が彼等の時勢論にどれだけついて行けたかなと思うのですね。
少年読本の言う、当時「重きを志士の間になしたるにはあらず」というのは、さもありなんと思います。


青蓮院


それががらーっと変わったのが、文久2年3月の上京後です。
それでも役割は青蓮院門院(中川宮朝彦親王)の守衛ですからね。

薩摩藩は寺田屋事件などの騒動を起こしたこともあるし、他藩士との自由な交流を禁じていました。
それをこの人、他藩の志士と交流しているのです。
他の郷中の二才と交流していたのと似たような感じで、独立独歩で囚われないというか、自由と言うか。
半次郎はどちらか言うと長州に近い感じですが、それはこうした交流のせいで、過激な尊王論や討幕論にかぶれた感がある。笑

ただ薩摩は長州や土佐とは違って、スタンドプレーは好かんのよ。
別に長州・土佐だってスタンドプレーを認めていたわけではないのだけれど、薩摩は藩として組織で動くので、個人個人が突出してというのはあまりない。

少年読本には過激論を唱える半次郎は「西郷や大久保からは寧ろ厭苦された」とあるけれど、分かる気がします。
ただ厭苦というまで行ってたかなとは思いますねえ。
しかしですね、藩の要路に立つ彼らと半次郎では立場が違い、勿論見ている所も考えている所も違う。
慎重な藩の態度に不満だとか、討幕論を口にされても、喧しく迷惑なだけだっただろうとは、思います。笑

ただ、この辺りについて少年読本は、「これ桐野の伝記だよね?」と感じるディスりっぽい記述が入っている。「一個の壮士、所謂暴客の流亜」ですからね。
著者、西郷隆盛に含みがあるのではと思うし、殊更に桐野の粗暴さを強調しているように思います。
この辺りの話の出所、中井桜洲(弘)ではないでしょうか。
どうだろう…


同時期に半次郎は小松帯刀に愛され引き立てられてもいるのでねえ。
ただの守衛がどうやったら御家老に見出されるのかと思う。
動乱の時代ですからね、ここまで来ると天性の性格とか熱烈とか至情とかでは流石に無理です。
大藩の家老が使えると見た人間だったと見るべきで、ただの「一個の壮士」「暴客の流亜」であったとは考えにくい。

しかも半次郎、小松の了解を得て薩摩藩士として、水戸天狗党の乱の際に首領である武田耕雲斎、藤田小四郎と面談している。
藤田は西郷も非常に尊敬していた藤田東湖の四男、武田耕雲斎は「水戸の三田」と称された水戸藩の参政であった人物。
上京してまだ3年経っていない元治元(1864)年に、このレベルの人と面談できるまでになっているという所に注目すべきです。
この人の耳学問、恐ろしいよ。
「彼をして学問の造詣あらしめば」という西郷評、これはかなり真実味があると思います。


しかし、西郷ら要路の人間が半次郎の他藩士との交流を利用したのは事実です。
長州藩邸にも出入りしていましたし、土佐の中岡慎太郎なんかとも面識がある(中岡も中々特殊で、長州藩士と生死を共にしていました)。
これが長州の内情を知るのにどれだけ役に立ったか。

しかしこれがはじめっから諜報活動であったかというのは、ちょっと疑問ですが。
出入りしている内に結果としてそうなったのではないかなあ。
この人、嘘がない感じなんですよ。今まで紹介してきた知人の評を見ても(※心象です)。
人をたばかろうとして、人と付き合うような人ではないと思う(※心象です)。
西郷なんて結構クールに半次郎を「本当に暴客(長州の過激派・尊王攘夷派)になってしまうかもしれない」と見ていますし。
情報は得て藩に流すけれども、交流のある長州系志士たちとは真正面から付き合っていたのでは思います。


(落とし所が分からなくなったw)


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