桐野利秋、とある人物評(6)

ヒジハラ

あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします!

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それでは昨年の続きで貴族院議員安楽兼道の「余の見たる桐野利秋」です。


安楽兼道
安楽兼道


安楽によると、吉野の桐野の実家を訪れて会おうと、未明に起きて行くという人が多かったそうです。
早朝から門の前には2・30人が待っていて、門が開くやどやどやと入ってく。
その内現れた桐野が「待たせた」とか何とかいいつつ、彼等と食事を共にし、快談し討論をしかけられてそれを打ち負かし。
日が高くなれば更に訪問客は増えて薩摩以外の人士もいるけれど、桐野は生国を聞くこともなく、名前を聞くこともなくオールウェルカムで話をしていた。

多少誇張もあるように思いますが、訪問者の多さは征韓論での帰鹿後はほぼ吉田に滞在していた事からも分かる気がします。
そして姻戚の肝付も同じことを語っていました。
曰く、桐野は何人に対しても障壁を設けることをせず、上下貴賤の差別なく誰が来ても同じ部屋に通し、遠慮なしに話をするのが常だった。


前回触れましたが、安楽は郷士出身です。桐野は城下士。
安楽自身が城下士からの差別について書いている位ですから、普通に考えれば城下士に対して含む所がかなりあるはずなのですが。
安楽が桐野を敬慕し交流していた要因のひとつは、こうした桐野の性格ではなかったかと思います。
そして桐野も城下士とは言うものの郷士とさほど変わらない生活を送り、また扱いを受けていました。(※吉野の城下士はそういう感じで、唐芋侍、紙漉き侍と蔑まれていました)
だから余計だったのではないかな。

そして気付くことがあります。
桐野は結構よくしゃべる(笑)
そして結構弁が立つ。雄弁である。
『桐野利秋遺稿』は正にその証拠でしょうが、口数の多さを蔑む風潮があった当時の薩摩にしては、珍しいタイプではなかったかと思います。

先日桐野は頭のいい人であったと思うと書きましたが、これはそう思う根拠のひとつです。
そもそも吉野出身の桐野が上之園方限(ほうぎり)の二才(にせ・若者の事)と交流する切欠になったのは、決闘を申し込んできた石見半兵衛を論破した為です。

この安楽の話の時期ですが、桐野が吉野にいた頃、戊辰戦争後~廃藩置県(明治4年)の際に上京するまでに絞れます。
更に安楽が知遇を得たのは明治3年、西郷と共に廃藩置県による上京を果たしたとすれば明治4年1月なので、まず明治3年の話と見ていいでしょう。

ただ交流はその頃だけかと思いきや、明治7年の佐賀の乱の際には桐野と西郷隆盛を訪れて意見を聞いたりもしているので、その後もそこそこの付き合いがあったと思われます。


安楽が淵辺群平の私学校入学の誘いを断った事は前回触れました。
断ったものの勧誘は続いていたようで(淵辺によるかは不明)、明治7年も終わりに近づくにつれ入学の強要が激しくなり、一度東京の様子を見てから決める、と上京した。
そして翌8年に警視庁に奉職し、9年の年末に帰郷している。


安楽曰く…
12月26日、川路利良の別邸で同志らと、
「各自帰郷して大義名分を説き、私学校に入門して前途を誤ることないよう、郷民を勧説しよう」
ということで意見の一致を見、翌日より続々出立。

公刊されている伝記で役割が密偵(私学校党の離間工作)だったとは絶対に書かないだろうなと思いつつ読みますが…
後は周知の通り。
明治10年1月末の海軍による武器弾薬の運び出しと、私学校党による草牟田火薬庫襲撃、そして中原尚雄を初めとする政府の密偵の捕縛と続きます。
喜入の安楽宅にも私学校党が押しかけますが、一旦は難を逃れたものの、この方自ら私学校分校に名乗り出ています。

安楽が鹿児島に拘送された時には、既に同志が拷問にかけられていた。
7・8人で取り囲んで棒でぶっ叩き、2回目の拷問で手指の爪が4枚落ちたと言いますから激烈なものであったと推察されます。
私学校党の方は頭っから「川路の密命を受けての帰郷」、帰郷の目的は「西郷隆盛の暗殺」として供述書を作成、彼等に無理やり拇印を押させている。
そして2月中旬、編制を終えた薩軍が進発、西南戦争が始まります。

拷問を受けた安楽らは獄舎に収監されますが、3月10日、鹿児島に入った勅使の一行に救出されています。
酷い目に遭ったなんていう言葉では表せないような目に遭っている安楽、伝記ではこう述べている。
本人の言です。


「十年戦争発端の事情に就いては、当時の事情を能く知らざる世間の多数の人々の中には、彼の弾薬を掠奪したることや、又我々同志者を捕縛せし等のことを、西郷先生初め桐野村田等の如き幹部の人々も承知の上で、彼の如き行動に出たることのやうに信じて居る人も間々あるやうに思はれ、実に西郷先生始め桐野村田其の他幹部連に対して、誠に遺憾千万の事に思ふ」

鹿児島の火薬庫襲撃事件は
「これも西郷先生や桐野村田等の如き幹部の人々は全然知られない事で、只一部の壮士等の行動だつた」

火薬庫襲撃や、帰郷者の捕縛拷問といった事を
「西郷先生を始め桐野村田等の如き幹部の人々等決して与り知らざる中の出来事であると確信いたして居ります」


これ、私学校党に捕縛され激しい拷問を受けた人間の言葉ですよ。
皆が皆こう思っていたわけではないでしょう。
しかし桐野が大体においてどう思われていたかが、窺い知れると言葉であると思います。
それなのに(以下ry


そして以下は安楽の桐野評になります。

「学問は深からざりしも、何にせよ維新に薩の有志家として常に死生の間に出入し、諸国の有志家と国事を死をかけて来りたるが為めに、且つ其天成の豪快なる実に天晴なる試将にて、又人物にて有志家青年の帰依する当然のことであつたのである」

試将は原文のままです。武将の間違いだと思う(読み辛いので適当に句読点を打ちました)。

学問は深くなかったが薩摩の志士として命をかけて諸国の士と活動し、また天成より豪快な武将であり一個の人物であったので、有志家や青年が帰依するのは当然であった。
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