桐野利秋、とある人物評(5)

ヒジハラ

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「桐野は背は中男の稍々(やや)高い方であつたが、色は白いといふのではなかつたが、何様中肉でスラリとした鼻の高い愛嬌のある美事な風采の大丈夫であつて、其の声の如き実に凛々として惚れ惚れするやうな男児の中の男児といふ男であつた」


これは貴族院議員安楽兼道の「余の見たる桐野利秋」(『時事評論5(10)』/M43-12)。
私は、安楽は警察、警視総監として名前を知っている人物でした。
川路利良に薩摩へと送り込まれ、西南戦争勃発のひとつの切欠となったの密偵のひとりです。
ここ重要な所です。

この中で安楽は桐野と同じ故郷と言っています。
更に桐野在郷の日は3日開けずに訪問していたとある。
ほう。

安楽は実家も養家も喜入(揖宿)です。桐野は吉野ですので、疑問を感じて調べたら「同じ故郷=薩摩の出身」という意味で言っている。

2eb1edddb8cd8bef1c2cf01e42179282.jpgややこしいわ!笑
 
伝記を見ると、明治3年安楽が21歳の時、桐野が視察で喜入に来た折に知遇を得ています。
安楽は桐野を敬愛しており、交流はその後も続いた。

安楽自身は戊辰戦争従軍後に鹿児島に帰っています。
そのため桐野が在鹿の際はしばしば吉野を訪ねて食事をご馳走になることもあり、この表現が在郷の日は…となっているのですね。
また桐野から別府晋介も紹介されています。

淵辺群平とは仲が良く、私学校入学を薦められているのですが、思う所がありそれを断っている。
気骨のある人物だと思います。

私学校はドラマで描かれていたような、西郷先生を中心に(は間違ってないんだけど)頑張る整然とした、理想的なばかりの学校ではありません。海外に優秀な生徒を留学させることもしているのですが。
しかし当時の私学校党には随分乱暴な所あり、非私学校党に対しては暴力的でした。
入りたくなくても入らざるを得ない人も随分いたのですよ。
(私学校と距離を置いた桐野は、この学校のそういう所を批判していました)

後の薩軍の幹部に近い淵辺(城下士出身)からの勧誘を郷士出身の安楽がよく断ったな。
以前も書きましたが、私学校は伝手が無いと入れないのです。
入りたくなくても入らざるを得ない人もいたし、入りたくても入れない人もいた。変な話だな。
薩摩は外から見る程一丸じゃない。

とにかく、超タカ派の淵辺に勧誘されて断るのは中々出来る事ではなかったでしょう。
淵辺は大分不興であったようです。
はい。
安楽、元は喜入郡の郷士なのですよ。淵辺と懇意か。ちょっと意外。
そういう人物の桐野評です。


桐野は幕末維新期には中村半次郎と言い、薩摩の有志家であり且つ

「剣客で常に虎口に出入りして何人かを斬つて居るから度胸は据り腕は冴えていた」
「已(すで)に男振りは可(よ)し、元気は山を抜くの概あるに腕は冴えて居るのに、其の人心の機微を察知して人を統御するの力量は其の先天的」(以下略)


はい、すいません、今日はここで切ります。
終らせるつもりがタイムアップでした。
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Comments 2

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ジゴロウ  

これですよ、これ。
幕末のニワカ(という言葉はいかんと思いますが)の勘違い。
會津も薩摩も長州もずっと一枚岩。
(何故か土佐は言われない)
…そんなわけあるかい!

こうして個性が潰されて、今年の大河のようなものが作られているんですね。

それにしても、有名になると、
個性がでるはずなんですがね…

2018/12/31 (Mon) 00:20 | EDIT | REPLY |   
ヒジハラ
ヒジハラ  
>ジゴロウさん

あっちもこっちもずっと一枚岩だったらもっとあれこれ上手くいってますよね~
土佐は分かります。あそこ「も」上士と郷士の対立が半端ないですが、それがよく知られているのは坂本龍馬の関係ででしょうねえ。
その上土佐勤王党の末路が強烈ですからあれ見て一枚岩と言われたら笑うしかないです(笑)

でも長州や会津が一枚岩だったら高杉晋作が尼さんに匿われたり井上馨が畳針で顔縫われたり、西郷頼母が殿にめってされることもないですよね!
現在でも狭い町内会とかでも争うというのに~(笑)
ファンタジーですねえ…

2018/12/31 (Mon) 16:56 | EDIT | REPLY |   

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