桐野利秋、とある人物評(4)

ヒジハラ

前回で終わるつもりだったのですが、もう少し桐野の話を続けます。
お前どれだけ怒ってんねん(笑)(※目が笑ってないやつ

桐野はね、広瀬とはまた違う感覚で大事なんです…大好きなんです…
薩摩を好きになり、近代史を好きになり、軍事に興味を持ち、広瀬武夫にも会えたのは、全部全部桐野がいたから。
サイトのアバウトでも書いているのですが、桐野は自分で調べれば調べる程、小説から得る印象と自分で結ぶ印象が乖離していきます。今までここまで離れていく人は桐野位でした。
広瀬もそうなのだけれど(誰からも好かれる好男子扱いされ過ぎている)、桐野程ではない。
昔は桐野の煌びやかなカッコ良さが好きだったのですが、今はもう少し違う所が好きになってます。
魅力溢れる素敵な人だと思う。

あのドラマの内容は言うに及ばず、桐野の扱いに愕然としました。
今まで言われて来た「それ違う」「考慮の余地が」「そもそも誰が言いだした」とかいう、否定されたり、また再考されてきた従来の悪い”桐野利秋像”を尽くトレースした…
だけにとどまらず、ドラマの中で史実を曲げたことで、改悪しました。
その上でバカ扱い。
そもそも西郷隆盛すらバカとかいう、前代未聞のドラマでした。
そら西郷を取り巻く村田も桐野も馬鹿ですよね。仕方ないわ。

でも、そうじゃない、そうじゃないんです…
村田も本当に素敵な薩摩人です。
西郷は、私はよく分からんなあ…
ただ一般的に思われているような剛腹、清濁飲めるような政治家・軍人であったかと言われたら、決してそうではないと思う。幕末はまだしも明治時代は違うでしょう。
清濁飲めるなら、何度も政治的失脚はしていない筈だ。(島流し、征韓論)
それは大久保利通でしょうね。

そしてあれこれを見ていると、西郷より桐野の方が人を受け入れる門戸は広かったような印象を受けています。
そういう話も散見されるんですよ。

私が持っている資料は本当に些少ですが、同時代の人が桐野をどう見ていたかを少しでも紹介したいと思っての連載です。
そういうことは初めに言え?そうですね。失礼しました。


***


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「実に磊落な淡白な性質の人で決して人に障壁を設けるやうな事はなかった」

桐野の姻戚、肝付兼行の人物評になります。
私これと同じことが書かれた資料を持っていた気がするのだけれど出てこない。あれ…
写真は『敬天愛人』掲載「桐野利秋と肝付兼武」。
『維新英傑の肝ッ玉』にも肝付の話が載っています。

肝付は先日嘉納治五郎のエントリで名前を出した柳楢悦と並ぶ、海軍水路部の祖になります。
少年の時から桐野に可愛がられていたようで、函館戦争の際に従軍したいと相談したら、直接西郷隆盛に頼めと言われてしまったという話も、本人が残しています。
結局これは無理だったのですが。

ただ桐野の心配の結果海軍に入ることになり、桐野が帰鹿する明治6年秋までは桐野の世話になっていたようです。


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「桐野はヨク女にホレられた」

桐野利秋モテ伝説を残してくれたのは、親友であった有馬純雄(藤太)。
宇都宮戦線に従軍し、捕縛され板橋に連行された大久保大和こと近藤勇の処刑には強く反対した人物。
有馬がというよりは薩摩は反対、でしょうね。庄内藩といい榎本釜次郎といい、薩摩はこういう所あるね。
近藤の処刑を押し切ったのは土佐です。坂本龍馬と中岡慎太郎を殺された(と思われていた)怨みがある。

よく連れ立って遊びに行っていたようです。良い仲間だったみたい。
写真は『維新史の片鱗』で、桐野京都明保野亭で汁粉26杯伝説(なんでも伝説にすな)を書き残してくれてもいます。
漢字の読み間違いの話もありますし、この回顧録は間違いなく司馬作品の桐野像の底本のひとつです。

でもね、汁粉26杯の話はあるけれど、酒から汁粉に切り替わるとコワイとか、そーゆー話はひとつもない訳ですよ!どこからの話だよ!典拠知ってる方おられたら教えてー!無い気がするけど!


つづく!(終わらんかったー!

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Comments 4

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なかむらきりの  
しつこいコメント、お許し下さい。

桐野のことになると熱が入りますので、というか、不勉強で他は無知なもので。

>「維新史の片鱗」
新選組近藤勇ファンの男友達は、津本陽の「天に消えた星」が桐野を描いた小説の中では一番好きだというので、タネ本は「維新史の片鱗」と教え、桐野と近藤関係部分をコピーして渡しました。

昨日の「桐野利秋、とある人物評(3)」の桐野と別府の写真ですが。
残念ながら、手の先が写っていません。
偶然か故意か?
土原様は桐野の指切断は左右どちらだと思われますか?
肝付兼武の「桐野利秋略伝」には左手となっています。
「農人としての桐野利秋」に書いてないのが残念です。

2018/12/29 (Sat) 00:44 | EDIT | REPLY |   
ヒジハラ
ヒジハラ  
>なかむらきりのさん

桐野の話が出来るのは嬉しいのでどうぞ遠慮なく^^

桐野の手、難しいですよね。関寛斉が右で、検死書は左で、親戚も左。
私は左だと思います。

まず利き手はという前提ですが、刀を振るう士分ですから右です。
左利きでも必ず矯正されます。

もし欠けたのが右の指であれば、「力を込めて刀を握って振るう」という動作が出来たかどうか疑問が残ります(日本刀は基本的には両手なのでこの辺りやや不明ですが。剣道は左で握り右は添えるだけです)。
農作業での「大声を上げたら云々」の話はありますが、恐らく同様だったと思います。

桐野の場合中指ですから、右であれば生活に大きな支障があったはずです。
一番は箸です。筆も大変だと思いますが、箸は持てません。
そうすると中指欠損以降に食事の場を共にした友人知人が「後日譚」といった形でそういった記事を残しても良さそうだと思うんですよねえ…

日露戦争時に山本五十六が左手の人差指と中指を失っていますが、その後どれだけ大変だったか。
人差し指が加わり更にハンディキャップは大きいですが、吸物椀の蓋を取るだけでも四苦八苦していました。

怪我の話が殆ど残っていないという所に、”生活に差し支える”場面を桐野が周囲にそれほど見せなかったのではないかと思います。
なので左ではないかと考えているのですが、どうでしょうかね?

2018/12/29 (Sat) 13:30 | EDIT | REPLY |   
なかむらきりの  
ご回答、感謝です。

桐野作人氏が講師の体験講座があり、「薩摩の密偵 桐野利秋」刊行によせてテーマが桐野だというので参加しました。
講座の終了時刻がかなり過ぎたのですが、最後に質問を受け付けてくれました。
作人氏はご著書で関寛斉の治療記録が信用できるだろうとしているので、肝付兼武は左と書いていると申しました。右の指が無ければ支障がある、云々と色々言ったら、「それは質問ではない」と打ち切られ、次の人の質問に移り、講座はおしまい。
作人氏はさっさと帰られました。
で、モヤモヤが残ったままでした。私も土原様のように考えていたので、関寛斉の記録が信用できる根拠を聞きたかったのです。

土原様のお考えをお聞きできて、桐野が斬られた指は左手と確信いたしました。
誠に有難うございました。
お熱が出たのは、私のせいです。旅行から帰られてお疲れなのに、色々書き込みましてすみませんでした。早いご回復をお祈りいたします。
それでは、良いお年をお過ごしください。

2018/12/30 (Sun) 01:18 | EDIT | REPLY |   
ヒジハラ
ヒジハラ  
>なかむらきりのさん

あーそれは桐野作人さん逃げましたね…^^;
前にもやもやすると仰っておられましたが、こういうこともあったからなのですね。
ご本人でもここ突っ込まれたくないなあと思う所だったのではないかと思います。
一般では「敬天愛人」までは読みませんし、普通では突っ込まれにくい。笑

そうとは言え実際に治療に当たった人物の記録は無碍には出来ないので、難しいところです。
ただこの件については、小説を除いては情報がほぼ「敬天愛人」掲載の論文のみですので、他が確かめられていないという問題があります。
関の伝記と、同著者による論文が霊山歴史館紀要にあるようなので、それ位でしょうか。私は未見です。
日記が見られたら一番いいのですが、見られるのかな?
桐野作人さんもこの方からの情報だと思いますが、論文でも関の記録は右だが殆どは左になっているともありましたよね。それを断定的に言いきるのはかなり乱暴に感じます。
検死調書、更に親族の証言、特に後者は普通に考えてもかなり重いと考えます。
その上で、生活の支障を考えての左、でした。
関の日記、古文書の誤読の可能性はないのかなあ…

風邪は急激な冷え込みのせいですので、お気になさらず。
却ってお気遣い頂いてしまってすいません~早く寝たら治りました。笑

なかむらきりのさんも御自愛下さい。
私は気温の変化について行けていません…

2018/12/30 (Sun) 11:04 | EDIT | REPLY |   

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