桐野利秋、とある人物評(2)

ヒジハラ

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桐野利秋、続き。

これは桐野ではないのだけれど、青竹云々の隣の辺見十郎太の話が少し気になって。


問「辺見は指揮の際に退却しようとする者を斬ったと言うが本当か」

答「そんなことはない、棍で殴っていた」


棍で殴るのも大概だと思うんだけどね。


いやー、これ、どちらが本当なのかと思いまして。

退却しようとする者を斬ったと言う話は結構言われます。有名だと思う。

ただどこで言われているの?という話で、私が確認したものでは、『明治の群像(3)』(谷川健一/三一書房/1968)、恐らく村野守治(鹿児島出身)の話。



学生時代に西郷隆盛以下を祀る南洲神社の例祭の折、(九月廿四日の城山落城の日)、薩軍生残りの古老から聞いた。
それによると辺見さんは薩軍随一の豪傑で、味方が退却すると逃げないように斬り殺したといわれているが、実際はそれより乱暴だった。
逃げたものを斬っただけでなくその生き胆を私等部下に食べさせて、お前達も逃げるとこのようになるぞといわれたのにはびっくりしたものだ。
辺見さんはそのように気性のはげしい人であったとその従軍した古老は語ったという。
ある友人から聞いた辺見十郎太の一面である。



覚えてらっしゃる方もおられそうですが、これは食人の話で一度紹介したことがあります。(食人の話

冷えもん取りの勇者、辺見十郎太でございます…

とまれ、どっちがどうなのかちょっと判断できない。

何か資料でも史料でも御存知の方がおられたら教えて。



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問「西郷は軍事は全て桐野に任せていたと言われているが?」

答「否。西郷は戦地の巡検はしていなかったが、本営で諸方の大駆け引きを指揮していた」


軍事の駆け引きの大要は握っていたと。


「苦戦の時には自ら戦場に出ようと度々していたが、諸将が止めた」


これはそうですね。

Vanish!~可愛嶽突囲のはなし#4」でも書きましたが、西郷が死ねば薩軍にどれだけの余力があったとしても西南戦争は終了です。

だからそれまで前線近くに出ようとする西郷を必死になって諸将が止めている。

西郷が前線に出て指揮を執ったのはただ一度、最後の決戦である和田越えの戦いです。


野村忍介によると西郷は熊本城を落とせなかった時点で、死の覚悟をしたようです。

それ故熊本を去るのを良しとはしなかったが、諸将に説得され移動しています。


熊本城開通後、薩軍本営は熊本城より10キロほど東の木山に移ります。

これはまた来週あたりにサイトでも案内しますが、桐野はここを決戦の地としようとした。

しかしながら薩軍の戦線は崩壊し、それを受けて桐野はここを死処と定めましたが、野村忍介に説得されて退却しています。


西郷と桐野の行動、逆を返せば、この辺り、薩軍が熊本城を落とせなかった時点でもう西南戦争の帰趨は決していたということです。


続きますー

ごめーん!短くてごめーん!眠いー!


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