桐野利秋、とある人物評

ヒジハラ

大河ドラマ関係のエントリ読み返して自分でもちょっと落ち着けwと思ってしまう。
何というか、もう特に言うことはなくてですね、ただただ興味を持って検索サイトからこのブログなりサイトなりに来てくださった方に、ちょっと違うらしいよと言うのが伝わればいいと思います…
このサイトのいつものスタンスです。

史実と違うから!と怒っているのではなく、先人を蔑ろにしているように見える内容を悲しんでいると思ってくださいorz

***

ちょうど鹿児島県史料が手元にあるので写してみます。
ひとつ目は野村忍介の戦後の口述になります(明治13年、「西南之役懲役人質問」)。
野村は西南戦争開始の際は4番大隊(桐野隊)の3番小隊長でした。
薩軍改編後は奇兵隊の隊長となり、豊後口に出ています。広瀬武夫の故郷、豊後竹田を戦場にしたのがこの奇兵隊です。

薩軍の進発についても慎重で(反対した)、その後従軍はしても、その意見具申は西郷を初めとする桐野など大幹部には悉くと言っていいほど容れられなかった。
思う所が色々とあったと思います。
城山では西郷隆盛らと最期を共にせず、この挙兵の精神を法廷で訴えるとして、同志数人と恥を忍んで生き延びることを決め、降伏した。

また西南戦争を通じての野村の同志には別府晋助の兄、九郎もおります。
桐野と仲が悪かったと紹介されることが多い人物ですが、これは司馬遼太郎『翔ぶが如く』にそう書かれているからであって、それが真実かどうかは不明であるということは、知っておいて欲しいです。
私が見ている限りでは二人の不仲が書かれた資料は見当たらず、司馬遼太郎は野村と行動を共にしたという状況証拠でそう書いている可能性が高いです。

もうひとつは『丁丑騒乱記』。
著者は市来四郎という島津久光の側近で、西郷に批判的な私学校の反対党です。
(西南戦争で家屋敷を焼かれた挙句、一族には薩軍に殺害された者もいるとのこと)

心情的に桐野と近かったとは言えない人物が見た桐野の話と、寧ろ遠い所にいる人間が見た桐野の人物評としてご覧下さい。
あまり余裕もないもので、適当に目についた所をピックアップします。

***

IMG_6226.jpg 


ページの始まりの所。
私学校生徒の草牟田火薬庫襲撃について問われた際の返答。
「桐野・篠原は当時その事を知らず」
桐野利秋も篠原国幹も無関係でした。

その隣、付箋を貼ってある所の下は
「暗殺の一条は、西郷は実と思いしなるや」
これは中原尚雄の捕縛の件で、「ボウズヲサシサツセヨ」、視察か刺殺かという話でした。
野村ともう一人質問されている長倉訒は「全く実と思った」、西郷は刺殺だと思ったと。

ちなみにボウズというのは鹿児島に派遣された密偵の暗号で、西郷のことです。
桐野は鰹節、別府晋介は花手拭、大久保利通は西の窪、川路利良は川崎屋、私学校は一向宗です。
私学校の一向宗は言い得て妙で笑える。


IMG_6227.jpg 


一番右の行です。
鹿児島に帰った時、桐野は喜んで家に帰り酒など飲んだという話があるがという質問。
「然らず」、違う、と否定されています。

別項では「桐野の妾が投降したという話があるが」といったような問いも為されています。
陣中に女を連れてきたことを聞いたことないとこれも否定されている。
薩摩には妾もいただろうが、「虚説なるべし」、うそだろうと。
桐野ってどうしてかこういう事を言われやすいのですよね…


IMG_6229.jpg 


付箋の所。
問、進発の際、桐野は握った青竹が変色する前に東京に到着すると口にしたか。
答、「一切聞かざる所なり」、一切聞いたことがない。
これ「熊本城など青竹一本で充分」伝説と似たようなものだと思うのですが、この手の話が明治13年にして既に出ていることに若干の驚きがあります。

つづく!(ごめーん

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