サイト更新:熊本城×西南戦争1(熊本城籠城へ)

ヒジハラ

昨日の更新です。
今回の更新は大河ドラマの内容とそこそこマッチしていると思いますので、よろしければ予習(笑)がてらどうぞ。

大河、今後は一応見るつもりではいます。
なんちゃって西南戦争でも一応西南戦争だし…
というか内容がそこそこまともなら最初から見てたんですけどね。
しかしながらあと3話で終わりだそうで、来週から西南戦争が始まるのに残り3話?お、おう…
熊本城攻防戦するのかな。
…するよね流石に。
え、あ、まさかのナレーションで終了とかいう…え?(でも西郷小兵衛出てたね。高瀬の戦いはするの?ナレ死?)
……。
…………。
…ま、まあそういうこともあり前もって更新しようかと。

「熊本城×西南戦争」ということで全5回。
4回までは戦争の流れを簡単に紹介しつつ、時々史跡(寧ろ石碑)が入る形になります。
最後の1回は史跡の紹介。
そしてサイトを作る段に至ってよく分かる行き洩れた史跡の数々…


今回の更新分は西南戦争勃ごろの政府軍、薩軍のそれぞれの初動と、熊本鎮台の籠城、明治10(1877)年2月19日の事を書いています。
そして史跡ページに入れているけれど、史跡案内はない(笑

2月19日は熊本鎮台にとっては酷く目まぐるしい日でありました。
①政府が薩軍の追討令を出した日
②薩軍の城下通行の通知書が届いた日
③熊本城が焼失した日
重なれば重なる。

②の通知書はよく知られていますが、「今般政府へ尋問の廉これあり」というもの。
こちらは西郷隆盛(桐野利秋、篠原国幹連署)が鹿児島県庁に提出した出発の趣旨書を、県庁が各所に宛てて書き直した上で通知したものになります。
「尋問の廉(かど)」これあり、兵隊を整列させて待っとけ云々は熊本鎮台宛のもの。
ちなみに西郷の元々の文章では「尋問の筋これあり」です。
個人的には”筋”より”廉”の方が非難の度が高いように思うのだけれど、どうなんだろう。
○○の廉にて***申し付ける、とか、罪状を申し渡す時の印象が強い。

③の熊本城の焼失の原因は、現在でも不明とされています。
昔は「偶然の失火」説が有力であったと思いますが、今では「鎮台による自焼」説が有力になっているようですね。

本丸御殿復元の際に行われた発掘調査から一番激しく焼けている箇所=火元が特定されていまして、それが本丸御殿の小広間。
ここ、どうも鎮台幹部の執務室であった可能性が高いようです(出土品から)。
一般兵卒が入ったり、ましてや薩軍の密偵が入って放火できるとも考えにくい場所。

更に特定の鎮台幹部しか立ち入れない場所から離れた天守閣にまで火が燃え広がるのに、有効な消火活動が行われた形跡もない。
あらら…
近代戦では天守閣は大砲の格好の目印になるため、鎮台が自ら焼いたのでは、という話。

そして文献資料では焼失したとされる兵糧500石、この炭化米は発掘調査では出てこなかった。
兵糧米、実際には焼けていないのでは?というのもこの話のセットになっている。

薩軍の総攻撃が始まるのが2月21日です。
米500石が燃えて、城を閉じる20日まで間が無いのに600石を買い求めた、とされる。
この火事が起きた19日、鎮台は籠城戦に向けて熊本城下の民家を焼き払っています。
市民は1日2日前に家屋焼毀を通知されて、慌てて立ち退いているのですが、こういう時に本当に600石なんて集められたのかという素朴な疑問が…
500石は無事で、100石買い足して600石にしたのでは?


ちなみに”米は焼けた”と文献では伝わっていますが、武器弾薬は無事でした。
これらも火に巻かれる所だった。
当時参謀として熊本鎮台にいた児玉源太郎が明治33年に『熊本籠城談』という口述筆記を残していて、その時の様子を語っています。

この日は強風でした。
その為火の廻りが早く、本丸御殿から大天守、小天守、いくつもの櫓…へと燃え移っていった。
熊本城には隅櫓という櫓があり、鎮台はその下を火薬庫としていました。

火の手はその火薬庫の目の前まで迫り、倉庫の扉を開けたら火の粉が入って引火、大爆発を引き起こすのでは、と兵が怯んで右往左往する程の状態であった。
その火薬庫の屋根に上って兵を叱咤激励、武器弾薬搬出の指揮をしたのが児玉になります。
これはギリギリ間に合い、全て持ち出したところで櫓が倒壊した。

こういう話があるから、失火説も捨てがたいんだよ~
幾ら兵糧があっても、武器弾薬が全くない状態では籠城なんてできません。
強風で延焼の恐れがあるというのに、鎮台自らがこんな危ないマネするか、という…
まあ児玉の話がどこまで真実かという問題がありますけれども。
そしてこの放火した鎮台関係者、児玉ではと言われています。
証拠はないけれど、昔からそう言われている。

そしてサイトでは籠城の人数は4000人としたのですが、西南戦争あるあるで見る書籍によって人数が違います。
さらに熊本市の公式(文化振興課)だと3300人、熊本城公式だと3500人。
うーん…
まあ…どのあたりが固いんでしょうねえ…


それはとにかく今回は史跡紹介の為の話ですので、あまり細かくは書いていません。かなり大雑把。
熊本城攻防戦までの大まかな流れを掴むのが目的です。
そうとは言え西南戦争の緒戦の緒戦(笑)は掴めると思いますので、遊びに来て頂ければ幸いです。


****


昨日の「英雄たちの選択スペシャル(決戦!西南戦争 西郷隆盛の真実)」見ました?
あれこれ「西南戦争は桐野の戦争」論調なのかな…と感じた時点、始まって30分ほどで私は脱落したのですがその後はどんな感じだったのでしょう。
新史料と言われると興味を引かれるのですが、平日のあの時間に2時間もテレビに張り付くのはちょっと辛い…(桐野どうこうで見るのをやめたのではないのよ
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