(11)戦況の悪化:ミッドウェー


前回は日米開戦から約半年で西はビルマから東は西南太平洋のニューギニアの辺りまで進出した話でした。
早いよね。いくらなんでも半年は早いわー。
当の陸軍首脳も思っていないほどのスピード展開でした。
英軍米軍の戦争準備の整わない内に攻撃した為で、両軍ともあまり強い抵抗を見せずに撤退、もしくは投降しました。

この時想像以上の捕虜の多さに困惑する部隊もありました。
フィリピンのバターン半島での捕虜取扱いがよく知られています。
これは一般には「バターン死の行進」といわれていますが、日本兵の取り扱われ方の方がよっぽど「死の行進」で「虐待」であることよ。
なんせ飢えと戦わせながら30~40kgの装備で中国から南方まで歩かせるような軍隊ですからね。
日本側には80km位の行軍で捕虜虐待とかいう認識、全くなかったと思うわ(80キロも長距離ですが。比較対象がおかしい…)

(ちなみに当時のアメリカは既に自動車社会です)

***


南方作戦が一段落した昭和17年3月、大本営は次段階の戦争指導の方向性を決定すると同時に、米英の本格的な反攻(反撃)は昭和18年以降になるだろうと予測した。

しかしこの見通しが甘かったことはビルマ制圧直後、昭和17年6月初旬のミッドウェー海戦と7月から翌年2月にかけてのガダルカナル島争奪戦での惨敗により早々に証明されることになる。


次段階の方向性を昭和17年3月に決めたというのは、予想していた以上に順調に展開した為もあるかと思います。

しかしそうとは言ってもさー
次の見通しをこの段階で決めているということにめっちゃ驚くわけですよ。
最終的な目的を達成する為の作戦って、戦争を始める前に予め何パターンか何段階か分からんが考えておくものではないのか。
国家の命運がかかっているのに、ちょっとやっつけ仕事過ぎないかと素人の私は思うのですが…

陸海軍のスタンスの違いもあるのだろうなあ。
陸軍が一番懸念していたのは日中戦争の行方とソ連への対応になります。
太平洋方面にまで足を伸ばすことは考えていなかった。
海軍は海軍で、米英の反撃に対抗するために、特に米国の同盟国であり連合軍の反撃拠点になっていたオーストラリアを制圧する必要があるとした。
陸海で向いている方向が全然違うし。

そもそも論ですが、仮想敵国が陸海軍で異なる段階でかなり問題があると思います。
陸軍はソ連、海軍はアメリカです。(日露戦争後から)



ミッドウェー海戦で、日本は開戦以来南西太平洋からインド洋に至る海洋を制していた連合艦隊、その中核である主力空母4隻を失うという壊滅的な敗北を喫し、以降日本海軍は攻勢に出ることが出来なくなった。
一方この勝利に力を得た米軍は本格的な反攻に乗り出すのである。


ミッドウェー海戦は南方作戦(第一段作戦)に続く第二段作戦、ミッドウェー攻略作戦の初っ端に起きた海戦になります。
ミッドウェー作戦は真珠湾攻撃で取り逃がした米国空母機動部隊を補足撃滅するのが目的。
その為にミッドウェー島に進出することで米国艦隊を誘き出し決戦に持ち込もうとした。

日本海軍は仮想敵・米国海軍に対する基本戦略として「漸減邀撃作戦」を採ってきました。
邀撃は迎撃という意味。
昔書いた記憶がありますが、これは明治40年「帝国国防方針」以来の海軍の方針です。
簡単に言えば、
1)米国艦隊を誘い出して日本近海で撃滅する(邀撃)。
2)その為、日本近海に到来する迄の攻撃で米国艦隊の兵力を漸次減退させておく(漸減)

基本的には受身の戦略ですが、この方針に添って日本の海軍は設計されている。
艦隊編成も、作戦も、研究開発も教育も何もかも。
(ロンドン海軍軍縮の際、対米7割を切る比率に対し末次信正が頑強に反対しますが、それはこの漸減邀撃作戦に支障をきたすというのが根底にあったようです。末次は軍令畑を歩いたこの作戦の第一人者でした)

それをやな、この方針を一擲、奇襲しようぜというのが山本五十六で、山本が構想した真珠湾攻撃であり、ミッドウェー作戦でありました。
そら軍令部は反対するわな。
そうするように作られた海軍やないのやし。

山本は日米の国力の違いから、戦争は短期終結、絶対に長期戦にしてはいけないと考えていました。
しかしそれは従来の守勢的な漸減邀撃ではムリ、劣勢な日本海軍が優勢に立つには積極攻勢に出て、早めにアメリカを強く叩くことで彼の戦意を挫くしかないとした。
その為に計画されたのがハワイ攻略であり、その前段階としてミッドウェー作戦(MI作戦)が計画されています。

これが攻撃偏重の情報軽視、軍令部・連合艦隊司令部・実働部隊といったほぼ全てのレベルにおいて作戦目的の認知・共有が不徹底であったこと、暗号が解読されていたこと、諸々の要因から、相手を奇襲するどころかこちらが迎撃されることになります。

ちなみに当時日本海軍の第一機動部隊は航空機の性能や兵員のモラル、練度において世界最強と言われていました。
後世で言われる多くの敗因を見ると、これ上層部が心血注いであれこれの可能性考えて真剣にやっていれば勝てない海戦ではなかったのでは?と素人は思ってしまうのだけれど、どうだろう。

索敵も不十分、相手の暗号も解読も出来ず、しかしながらこちらの情報は相手に暗号を解読されて筒抜け。
その上相手はきっとこう出てくるという先入観。
情報を持たずに一体どうやって相手と戦おうというのだろう…

日露戦争の時でさえ海軍は情報収集の為に随分努力してますよ。
以前書いた三六式無線電信機もしかり。
まあ、海軍は諜報活動はあまり得意ではなかったようで、外務省に頼んで開戦直前までウラジオ軍港の様子を通報してもらっていたりですが。
この時の担当者が貿易事務官としてウラジオに駐在していた川上俊彦(としつね)、広瀬武夫の親友のひとりになります(戦後に海軍から表彰されている)。
出来る限りの努力はしている。
昭和の方は慢心だろうなあ…

ミッドウェー海戦の結果、日本海軍は機動部隊の虎の子・航空母艦4隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)と多数の艦載機を失いました。
特にベテランパイロットが犠牲になったのが痛手であったといいます。

そしてミッドウェー作戦が開始される前にこういう事態になったため、作戦自体がなくなり、勿論ハワイ攻略なんていう状態ではなくなってしまった。



その大規模反攻に最初に曝されたのがソロモン諸島のガダルカナル島であった。
ガ島を巡る攻防戦で日本は圧倒的な兵力と物量で攻め寄せる米軍に敵わず、海戦では制空権・制海権をほぼ奪われ、寡兵の上補給線を断たれた状態で行われた陸戦でも大敗。
8か月に及ぶ消耗戦で2万超の戦死者を出した末に、昭和18年2月に同島を撤退するという惨憺たる結果となった 。
ミッドウェーとガ島の戦いは日本の攻勢から守勢への転換点、日米の形勢を逆転させた大東亜戦争の転換点となったのである。


***

はい、続きます。

お借りしているこのブログテンプレートの製作者様が、テンプレのアップグレードをされていたので我が家(?)もそちらに乗り換えました。
大きくは変わっていないはず…
上部に出てくるグローバルメニューが少し変わった位でしょうか。
そちらからサイトとインスタに行けるようにしましたので、宜しければご利用ください。
あとカテゴリーですが、「軍歴証明書ノート」を昭和カテにしました。
近代で孫枠まで作れたらいいのだけど、ブログ公式では子枠までみたいなので、とりあえず「昭和(軍歴証明書ノート)」。
まあ、まごう事なき昭和だし。

インスタが…なんか面白いわ…(笑
私あまり流行には乗らない方なのだけど、たまにはいいなと思いましてよ(何様
お弁当とか手作りお菓子の写真とか、レベル高すぎて却って参考にならないw

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