軍歴証明書ノート(9)南方への進出

歴史の話に触れなくなって久しい気がするので、ちょっと纏め上げたことをつらつらと書いてみるわー。
書いてみるというか、今書いていることを適当にコピペする。笑
君手抜きと云ふ勿れ^^;

ミクロに入る前のマクロ、個人(が所属した部隊)史に入る前の歴史の大筋を追うことが目的なので、入り組んだ話は全てカットしています。
カットした挙句、なんか…違う…となることもしばしば(笑)((笑)じゃないよ…


***


南方戦線の中のビルマ戦線について!

<南方への進出>

日本は二度に亘りフランス領インドシナ(北部仏印・南部仏印)に進駐している。
一度目の北部仏印進駐の目的は支那事変解決の為に英米ソ三国の援蒋行為を途絶すること、具体的には援蒋ルートの遮断であったが、この進駐によりアメリカが対日屑鉄禁輸に踏み切ったのである(昭和15年9月末)。

昭和15年1月に日米通商航海条約が失効した後(脚注20)、アメリカは石油と屑鉄以外の軍需物資の対日輸出を事実上禁止していた。
石油と屑鉄が除外されたのはこれらが日本が最も必要とする戦略物資であった為で、アメリカはこの2品目を握ることで日本の行動の抑制を期待したのである。


※援蒋ルート
蒋介石の国民政府への軍事支援ルートのことですね。
香港ルート、ハノイルート、ビルマルートがありましたが、その最大規模のものが北部仏印のハノイルートでした。
ちなみに香港ルートは香港攻略時、ビルマルートはビルマ攻略時に遮断しています。
中国での戦争が日本にとっていかに負担になっていたか、また中国との戦争を陸軍がいかに終結させたかったかがよく分かる出来事です。

※脚注20(笑)
昭和15年1月、アメリカにとって対日経済制裁の法的障害であったこの条約、日米通商航海条約が失効します。
日米間は無条約となり、これ以降アメリカは何時でも合法的に対日貿易を制限・停止する事が可能になりました。
当時日本は機械類、石油、鉄類等の戦略物資をほぼ輸入していた。
その内の7割をアメリカに依存していて、アメリカとの貿易関係途絶は日本にとって死活問題でありました。
仏領インドシナへの進駐(=南進=東南アジアへの進出)の目的は、援蒋ルートの遮断だけでなく資源獲得の為でもあったのですね。


しかしながら日本は北部仏印へと進駐し、これにより屑鉄が全面禁輸となり、昭和15年9月の時点で日本がアメリカから輸入する重要戦略物資は石油のみになったのだった。
当時の日本は石油必要量の7割をアメリカから輸入しており、石油(特に原油)が全面的に禁輸されると艦船や航空機の燃料源が絶たれる状況にあった。

また日米通商航海条約失効により軍需資源の安定的な輸入に不安が生じ始めると、日本はいよいよ資源豊富な東南アジア地域への関心を高めていく。
日本は戦略資源獲得の為に仏印、蘭印それぞれと外交交渉を行っていたが、前者では結果として二度目の進駐が行われたのであった(昭和16年7月末) 。


※当時原油は日本国内で精製できたので、原油禁止の方がより致命的でした。

※仏印はフランス領インドシナ(現ベトナム)。
天然ゴム、錫、亜鉛、タングステン等の重要資源の生産地であると共に、マレー・シンガポール等の英領、蘭印、米領フィリピン等へ直接攻撃できる基地となりうる位置にありました。
資源に加えて戦略的にも重要な地域だったのですね。

※蘭印はオランダ領東インド(現インドネシア)。
天然ゴム、錫、ニッケル、ボーキサイトの他、石油の埋蔵量が豊富で日本は早くから石油の供給元として注目していました。


日本としてはこの南部仏印進駐という軍事的圧力により蘭印当局との交渉が有利に進むことを期待したのだが、この進駐により引き出されたのはアメリカの対日石油全面禁輸・在米日本資産凍結であった。
そしてイギリス、オランダもそれに追随することになる。

日本は石油が全面的禁輸となった場合南方武力行使を決定していたが、これは即ち対米戦争を意味するものであった。
その為日本政府は戦争回避に向けてアメリカとの外交交渉をぎりぎりまで続けたが、遂に決裂(11/27)、対米開戦へと至ったのであった。


※フランス政府との話し合い?の末での進駐です。一応は平和的進駐。一応は。
そして諸々の状況+フランスとの問題ということもあり、アメリカがここまで厳しい態度に出るとは日本は考えていなかったといわれています。
マジかよ。正気なの?と思うのは歴史を後世から見る人間の傲慢なのでしょうか。
南仏進駐が日米関係を決定的なものにしました。
またイギリス、オランダ、中国がアメリカの動きに追随、これは一般的にABCD包囲網とかABCD包囲陣と言われます。どっちが正しいの。
 

*


昭和16(1941)年12月8日の開戦と同時に陸軍は3つの作戦を開始した。
マレー作戦、フィリピン作戦、香港攻略作戦である。
前者2作戦の目的は前述してきた通り蘭印で産出する石油資源の獲得であった。
作戦はまず、

①英領マレーとシンガポール(マレー作戦)、米領フィリピンを攻略した後(フィリピン作戦)、
②その奥にある蘭印、特にジャワ・スマトラを攻略し(蘭印作戦)、
③これら占領地域を安定確保する
というものであった 。

そしてこの南方作戦が一段落した後、兵力に余裕があれば為し得る限りでビルマ作戦を行うとしていた。
それが開戦間もない昭和17年1月2日にフィリピンのマニラ、2月15日にシンガポール、3月9日にジャワ島を占領するという予想を上回る速度で南方地域の攻略が進展した為、英領ビルマ(現ミャンマー)へ積極的に進出することになったのである 。


※①~③の作戦を纏めて南方作戦と称します。
また同時に実施された真珠湾攻撃(ハワイ作戦)は上記地域進出の際、米国太平洋艦隊の動きを抑える目的で南方作戦の一環として行われたものになります。

※フィリピンのコレヒドール要塞だけは時間を要し5月7日に攻略完了。
米軍の司令官D・マッカーサーは退避先のオーストラリアで記者団に対し、
”I shall return”(私は必ず戻る)
という有名な台詞を口にしています。


日本にとってビルマは英米支の連合軍の反撃から南方資源地帯を守る西の防壁という戦略的な意味を持ち、また地上最後の援蒋ルート(ビルマルート)が残されていた地でもあった。
2月からビルマ攻略に当たった第15軍は3月1日にラングーン(現ヤンゴン)、5月1日にマンダレーを占領、5月末にはビルマ全土を制圧して援蒋ルートを遮断した。

日本は開戦から約半年で東南アジアの要域を尽く掌中に収めることになったのである 。


※一方西太平洋では昭和16年12月10日に米領グアム島、翌年1月にビスマルク諸島・ニューブリテン島(ラバウル)に上陸、3月にニューギニアの一部を占領しています。
西はビルマから東はニューギニアまで幾らなんでも占領地域が広大過ぎます。


20170208.jpg 


****


どうだい。まじめに書いているだろう(そりゃあね
教科書のようだ…(面白みに欠ける)(面白さを求めるなよ)

個人史なので大雑把な流れが分かればいいのです。
なぜ中国からビルマに行く必要があったのかが分かればいいのです。日米交渉とか書いとったら死ぬわ。
しかしビルマに行く話を書こうと思うと南方進出の話がいるし、南方進出の話を書こうと思うと日中戦争の話になり、日中戦争を書こうと思うと満洲の話になり、結局行き着く所は資源確保の話になります。
そう言うもんなんですよ…
吐息も青くなるわ。泣きぬれて蟹と戯るわ。
流石に書き始めているのは日中戦争からですが(というか祖父も日中戦争に参加しとるし)、しかし長くなる…悪い癖である…
関連記事

0 Comments

There are no comments yet.

Leave a comment