軍歴証明書ノート(8)

11月に間に合わない\(^o^)/  >軍歴証明書


大体お察し頂いていたかと存じますが間に合いません。


…と話すと笑われてしまった。
やるからにはきちんと調べたいのでもう少し時間が欲しいということで、年内完結を目指す。
希望としては12月までに何とか…なんとか…(息も絶え絶え

救いがないので調べるのが辛いというのがある。

寝るまで本を読んで文章を書いて、朝1時間程また同じことをして、気持ちが上手くスイッチしないまま家を出る。
涙腺がゆるゆるになっていて、これが本当に困る。

みさわちゃんと会った時に、昭和初期や支那事変(昭和12年/1937)の辺りの感覚を思い出してきたという話をしたのですね。
自分が論文で扱っていたのが1920年代(大正中期~昭和初期)の陸軍だったので、この時期からは微妙にずれていたのだなあ…
とはいえ全く触らないわけにもいかないので、申し訳程度には勉強した(申し訳って)。

そして阿南惟幾の『一死大罪を謝す』を読んだ理由も思い出した。
梅津美治郎(最後の陸軍次官)の関係だ。


まあそんな感じであったのですが、久々にあの時代を見て「あーそうだったわ」と思うことも「そうだったのか」と思うことも多く、そういう意味ではとても新鮮。

申し訳程度にしか見ていなかったので、「そうだったのか」率の方が非常に高い為と思われる…

制度の話を見ていたので、正直言って当時は戦争の推移を見るような余裕はなかった^^;
「支那事変」(日中戦争)と言っても一纏めで語ることが出来ない位の出来事があるなと今更ながらに思う。


当時の日本を取り巻く情勢を見ていると、昭和15(1940)年末の段階で日本は相当詰んでいる。

昭和14年の初夏~初秋にはノモンハン事件でソ連に敗北。

これと並行して同年6月には陸軍は天津の英国租界を封鎖、そこから英米との関係が悪化して結果日米通商航海条約の破棄に繋がっている(S15年1月)。


日米通商航海条約は、アメリカにとっては対日経済制裁の法的障害になっていました。

この条約の失効で、以後アメリカは何時でも好きな時に日本への輸出を制限・停止する事が出来るようになります。

当時の日本は、機械やクズ鉄、石油といった戦略物資をほぼ輸入していました。

その7割、実に7割をアメリカに依存していた!


日本のアメリカ依存という構造は明治の頃からで、日露戦争だってアメリカの援助が無ければ難しかった。

大正7(1918)年のシベリア出兵時だって、アメリカには非常に気を遣っているのです。

軍事費も軍需品も、その主たる調達先は英米、特にアメリカであるから。

そしてワシントン海軍軍縮会議時(大正10年)に、加藤友三郎がこの依存の観点から英米を絶対に敵に回してはいけないと考えていたということは、2・3年前に触れました。

その頃と構造は全く変わっていない。


軍事費と戦略物資の調達先という点で、日本はアメリカに首根っこを掴まれていたに等しく、よくこんな国と戦争する気になったと思います。


昭和14年の9月に第二次世界大戦が勃発。

その1年後の9月に日独伊三国同盟が締結され、それとほぼ同時に北部仏印に進駐。

南北の2度に分けて行われたフランス領インドシナへの進駐の目的は、戦略物資確保の為だった。



昭和15年9月の北部仏印への進駐のもうひとつの目的は、最大規模の援蒋ルートであったハノイルートの遮断。

実は、日本はこの北部仏印進駐の頃まで、蒋介石の国民政府との和平を模索していました。


簡単に済むだろう、長くても3・4ヶ月で済むだろうと思った支那事変は昭和15年で既に3年目。

陸軍としては事変の早期解決を望んでおり、15年初から桐工作という和平工作を行っていました。
これには陸軍としても結構期待を掛けていた様子。

しかしながら上手くいかず、丁度進駐の頃に断念しています。


昭和15年末の時点で、北方では近代戦の洗礼を浴びて敗北したソ連と隣接、大軍(85万人程)を貼りつけている中国では事変解決の糸口すらない。

その上南方でイギリスを敵に回し、更にアメリカも、というのは相当です。

当時支那派遣軍(中国戦線を統括する総軍)が「支那事変が解決していないのに」と南方進出に反対していますが、そらそうだろうとしか思えない。


年表に刻まれた出来事を見ても行き場がないというか、逃げ場がないというか、そういう方向へ進んでいっているのが素人目に見ても分かる。
閉塞感が凄い。息苦しすぎる。


そして桐工作とは別に、手を広げ過ぎた中国戦線を北支のみにして中支は捨てよう、という話もあったのですね。

和平工作にしろこういった話にしろ、日米開戦までに支那事変をやめる足がかりになる機会は何度かあり、それが潰えるのを見る度に何とも言えない、言いようのない気持ちに駆られる。


思い出しているのは支那事変の辺りの感覚だけではなくて、この何とも言葉で表現しがたい気持ちも。

何で、どうして、ああこの時こうだったら、ここでなら引き返せた、ここでならきっとまだ間に合った。

そんな行き場のないどうしようもない怒りと悔しさ。

結果を知っているからこそ、そう言えるのだと分かっているのだけれど。


おかしいと思われるかもしれませんが、悔しいんですよ。

軍や政治家の余りの独善が悔しくて、泣きながら史料を読んで資料を捲ったあの時の感覚。

そんなのも一緒に思い出す。

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