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20 2014

(11)宇和島へ

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大村益次郎(当時は村田良庵)が大阪の適塾に入ったのは、弘化3(1846)年、23歳の時。
当時の塾頭は村上代三郎という兵庫の人で、この人は後に大鳥圭介(兵庫)と一緒に江戸に出ています。
村上は伊東玄朴の塾に入ったようですが、大鳥は坪井信道の高弟(坪井の娘婿)の塾に入っている。

…坪井信道、覚えてる?^^;
佐久間象山が蘭学を勉強する切っ掛けを与えた人で、緒方洪庵の先生
高野長英とも知り合いで、酷い目に遭ったという話に触れました。

また大鳥は江川太郎左衛門亡き後の江川塾に学び、後にそこの教授になっています。
その頃の江川塾の生徒に大山弥助(巌)やら黒田了介(清隆)がいる。


『われ徒死せず』(福本龍/国書刊行会/2004)を見ると、大鳥が入塾した時の塾頭は伊藤慎蔵(精一)だったそうです。
あ、そうなんだー
伊藤は長州萩の人。
恐らく同郷ということもあったのでしょう、大村とは仲が良かったみたい。
しかしながらこの方酒好きで何らかの失態があったらしく、それが原因で一度適塾を破門されている。
それを緒方洪庵に取り成したのが大村だったみたい。


実はこの方、我が地元にちょっと関連のある人だったりする。
奥さんが西宮の北の方、名塩の出身なんだ…
緒方洪庵の妻八重も名塩出身で、そのあたりから何らかの関係があるのかと思うのだけれど、調べたことはない。
色々な経緯から、八重の実父のバックアップを得て名塩で蘭学塾を開いています。
あちこちから塾生がやってきて、結構隆盛したらしい。
大阪港にロシアのプチャーチンが来航した時には、その通訳を務めたりもしている。
多分大村辺りの引きで、長州に仕官しないかという誘いがあったのだけれど、それを断っています。
そこでその誘いに乗っていたら、間違いなく陸軍あたりの軍医になってただろうと思われる。


村田は適塾で1年学んだ後長崎へ1年留学、その後再度適塾に戻ってきて塾頭を務めましたがそれも2年程で、郷里に帰って病院を開業しています。
ただ、「今日は暑いですね」と挨拶すれば「夏は暑いのが当たり前です」と返してくるような人なので、医者としての腕は抜群にいいのに病院は流行らなかった。笑


そしてやって来た嘉永6(1853)年。
日本史的にはペリー来航という重大事件が起きた年ですが、大村にとってもひとつの転機になった年です。
なんかね、ちょっと時間軸が分かりづらいと思って簡単に年表作ってみた。

大きい画像でごめん…
どれ位の縮尺がいいのか、いまだによく分からんorz

(1)
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(2)
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右側の欄にこの連載で書いてきた事を大雑把に詰め込んでみた感じ。
当たり前ながら、色んな事が同時並行で起きています…
てゆーかお玉が池種痘所開設がふたつあるorz
安政5年が正しいです。

大村益次郎が宇和島藩に招聘された年は、ペリーが来航した年。
それを受けて韮山代官江川太郎左衛門が品川台場を築造に着手したのは、この連載の初めに触れました。
で、江川に付き従ったのが斎藤弥九郎であり、その巡検の際は従僕として桂小五郎もついて行った。


大村は宇和島に高野長英(岩手)の後継として迎え入れられた。
宇和島藩、当時のお殿様は伊達宗城ですが、元々外国事情に関心が深かったようです。
高野長英はその著者『戊戌夢物語』が咎められ蛮社の獄の犠牲者になるわけですが、伊達宗城はこれを読んで一度著者に会いたいといい、伊東玄朴の仲立ちで2度程会ったことがあるそうな。

高野が脱獄して4年後、その所在を知った伊達宗城が手を回して高野を宇和島に迎え入れています。
それが嘉永元年、年表(2)の上から4行目。
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大村益次郎

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