Para Bellum

ARTICLE PAGE

14 2017

軍歴証明書ノート(4)

徴兵検査を受け、5分の1の確率で貧乏くじを引いてしまった壮丁は、翌年の1月10日に入営します。
日中戦争の頃はそうだったらしい。
当時出版されていた「入営のしおり」っぽい本を見ても同日でしたが、時期によって違うのかな?
祖父は同年の12月でした。

この時に入営日時や入営部隊所在地等が記された「現役兵證書」が所轄の連隊区司令官名で送られてきたそうです。
家のじーさんのは残ってなかったのだけれど、青年学校手帳の最後に徴兵検査の結果と連隊区司令官以下調査官の印が残っていて、あと入営時に渡されたと思しき紙が残っていた。
それには「第一乙 山砲兵 第参六番 仲多度郡神野村 (氏名)」と書いてある。

ちなみ曽祖父の軍隊手帳は残っている。
(1)で昭和12(1937)年の支那事変以降は徴兵率が上がり、それまでは満20歳男子の5人に1人であったものが昭和15年には2人に1人となったと書きました。
軍隊手帳があるということはこの「5人に1人」になってしまったわけで、明治39年の12月に歩兵第12連隊第10中隊に入隊している。

歩兵第12連隊は編成地が丸亀で、師管区は言うまでもなく善通寺。
第11師団は日露戦争の旅順攻略に参加していて、もしかしてと思い能々見てみると、歩兵第12連隊は東鶏冠山の担当になっていて、第1大隊が白襷隊に参加している。
第10中隊は恐らく第2大隊か第3大隊だったと思うが。
しかし家のひーじいさん、あと2・3年生まれるのが早かったら旅順で戦死していたかも。





入隊1年目は初年兵で、この時の階級は二等兵。
翌年に初年兵が入ってきたら自動的に一等兵になる。つまり二等兵=初年兵。

初年兵時には1年を6期に区切って教育・訓練を受け、期ごとに連隊長や旅団長から検閲(習熟度を見る検閲)を受けていた。
初めの4ヶ月がその第1期で、ここで兵隊としての基礎訓練を受け、ここをクリアすれば戦場に出してもまあ良かろうという状態。

この第1期検閲で優秀な兵が上等兵候補者になり、特別教育を受ける事になる。
とは言え候補者全員が上等兵になれるのではなく、選抜がある。
上等兵への選抜は半年毎位で行われていたようで、初めが12月。
ここで選ばれると「一選抜の上等兵」といって、在隊している間の箔になったそうです。
祖父の軍歴を見るとこの一選抜でした。
昭和15年12月に入隊、翌16年5月の第1期検閲後に中国に渡り、12月に上等兵に昇進している。

平時に上等兵になるのは大変で、初年兵の1~2割程度。
上等兵で満期除隊となり農村部や漁村部に帰ると、村長が一席設けてくれる程のものであったそうです。
ただ光人社の『よもやま物語』シリーズをいくつか読むと、支那事変以後は3年ほど兵隊を続けていると大抵上等兵になれたようで、この辺り戦時と平時では随分様子が違っている。
戦争が起こると人員が足りなくなるというのもあるだろう。

陸軍のヒエラルキーの中で一番多かったのが一等兵。
兵役は2年もしくは3年で、平時であればそれで満期除隊になるけれど、戦争中は中々そうもいかない。
出征地では除隊即日召集が常態化し、3年兵、4年兵の一等兵なんてざらにいる。
戦争も末期になると6年7年なんて古兵もおり、こうなってくると小隊長や中隊長でも、ちょっと遠慮がある、頭が上がらないということもあったそうです。
小隊長中隊長、若いし明らかに経験が少ないしね…

兵隊の世界では「星の数よりメンコの数」といって、星の数=階級より、メンコ=飯、軍隊でメシ食った回数が多い方が上。
上等兵や兵長でも、自分より年次が古い一等兵には逆らえず、階級が上でもビンタされたりすることもあったそうです。

兵長は某漫画で近年よく知られる階級かと思いますが、これは支那事変後の昭和14年に出来た階級。
上記の通り兵役満期になっても除隊されない古参上等兵の数が増加したためで、その調整のために作られた。
そうだったんだ。

二等兵ー一等兵ー上等兵ー兵長 ここまでは「兵」
兵長の上は伍長、その上は軍曹、准尉(特務曹長)と続きますが、こちらは「下士官」

実際に軍隊を支えたのはこの下士官、特に軍曹と准尉。
然しながら総じて下士官は積極的、優秀で、戦場でも敬服すべき働きぶりを示すものが多かったとのこと。
戦争では分隊長として兵隊の先頭に立ち、部下をいたわり、善戦したのがこれら叩き上げの下士官。


指揮能力というのは、いかに部下を殺さず、いかに戦果をあげるか、にかかっている。
そしてその根幹をなすのは、部下より先におれが死のう、あとにつづけ、の精神である。

下級の兵隊が上官に敬礼するのは、陸軍礼法できまっているからでも、相手の学歴や階級を尊敬しているからでもない。
一にその指揮能力を信じ、死ぬときは先に死んでくれる、という思いがあったからである。

しかし多くの統率者は、自分が偉いから敬礼されるのだと安直に錯覚し、兵隊の期待を裏切った事例枚挙に遑がない。
ただ、分隊長である下士官が兵隊の期待を裏切ったという事例は、率からいうとほとんど無いのである。 (『兵隊たちの陸軍史』)


『兵隊たちの陸軍史』には大正10年生まれ昭和17年2月入営の人物の軍歴が紹介されていて、それを見ると
17年2月二等兵、
 同年8月一等兵、
18年2月上等兵、
 同年8月兵長、
19年3月伍長、
 同年8月軍曹。
著者曰く、


入営後三年六ヶ月で軍曹というのは最高に早い出世で、同時入隊兵でまだ一等兵の者が三分の一はいたはずである。
通常この年限で伍長になれれば目立った出世であった。
一等兵と上等兵の差でさえ、いかに隔たっている(出世に時間がかかる)かを、兵隊経験者ならよくしっているはずである。


そうなんだ…
この方、祖父より1年遅い入営。
祖父は入営1年後に上等兵、その2年半後の昭和19年6月に兵長、昭和20年8月に伍長。
復員直後の昭和22年3月、現役除隊の前日に軍曹になっている。
これは所謂ポツダム進級かと。

母から祖父は軍曹になって帰ってきたと聞いていたのだけれど、確かにそれは本当だけれど、まあ実質的には伍長…というより兵長か。

そう思うとこの方、確かに無茶苦茶早い出世である。
関連記事

0 Comments

Leave a comment