Para Bellum

ARTICLE PAGE

12 2017

とある海軍士官の死

先週、松村純一のご子孫様よりご連絡を頂きました。
ありがたや…

松村純一は海軍兵学校18期で、加藤寛治、安保清種の同期になります。
加藤と安保は海軍兵学校の予科生徒からのスタートですが、松村も同じ。
予科は大雑把にいえば父兄に海軍関係者がおれば受験資格があり、松村の場合は父が海軍さんでした。


向井弥一 松村純一


松村については「栴檀#3」で上の写真を紹介させて頂きました。
日露戦争の際、アルゼンチンから買い付けた日進と春日、この内の日進を必死のパッチで日本まで回航してきた回航委員のひとりである。
ちなみに春日の回航委員長は鈴木貫太郎でした。

調べていた際は出身地が不明であったのですが、この度佐賀だと教えて頂きました。
で、調べていた時にはちょっと見られなかった昭和17年編纂の海軍義済会名簿も先日調べたのですが、松村純一の本籍地は東京になっておりました。
そらー私では無理ー。笑
ちなみに海軍士官は軍歴の途中で本籍地を変えてしまうことが結構あります(東京や神奈川が多いと思う)。

向井弥一のご子孫様より沢山頂いたあの人この人の若き日の写真が、佐賀出身者と同期海兵15期が多かったので、一体どういう関係なのかな?と思っていたのです。
まあ15期と18期なら、兵学校で顔を合わせていただろうし、位で。
あと柔道繋がりがあったかも?位で。
同郷の方であったのですね。


松村の父が佐賀出身の松村義櫢(よししげ)という人物だとも教えて頂きました。
漢字難しい…
櫢の字が初見で、どういう意味なのかと字通を調べたけれど掲載されていない。
字通で載ってないって一体。そんなことあるんか^^;

明治4年生まれの松村純一は、翌5年に父に伴われて上京したようだ、とのこと。
こちらも海軍義済会名簿に名前が出ていました。

最終階級が大尉、本籍地佐賀、明治17年10月8日に36歳で亡くなっている。
若い…
病気かと思いアジ歴を見ると、筑波艦で航海中の病死となっている。
こちらでは「十月二十八日病死致候」(11月20日 松村大尉病死御届/C10101535000)と海軍省に届けられていて、史料作成の年代と性質から正しいのはこちらでしょう。
義済会名簿、「2」を落としているのでは(15期の広さんを広さんと書き間違えていた所から、義済会名簿にはそこまで絶対の信頼を置かなくなっているのである。笑)。

明治17年、筑波艦で航海中に病没ですか…
……。
……………。
えっ?

明治17年、筑波で航海?


493d8d4d3649ed0f374515598ddacf65.jpg 


ちょっと待て。
それは脚気実験のフネではないのか。

調べました。
脚気関係のファイル出してきました。
ビンゴ!
名前出てたわ。


脚気


画像大きすぎてすいません。
これ以上小さくすると文字が読めない…

松村義櫢大尉は筑波艦で行われる脚気病予防試験の委員に任命されています。
明治16年11月30日任命。
『明治期における脚気の歴史』の参考文献になっている『海軍脚気病予防事歴』も確認したのだけれど、


脚気


委員の名前が出てくる直前でコピー終わってた…
ちょっと…自分……
しかし気を取り直してデジコレで調べた所、既に公開されていました。


脚気


この筑波艦の航海は海兵11期の遠洋航海で、明治17年2月3日からニュージーランド、南米チリ、ハワイを経て11月16日品川帰着。
松村義櫢大尉の命日は明治17年10月28日であるので、帰国直前に亡くなったことになります。
さぞや無念であっただろう。


明治17年以前の海軍における脚気の状況は「日本人なら麦を喰え 海軍編」をどうぞ。
軍艦の艦長が釜を焚かなければならない位、当時の海軍ではバッタバッタと脚気で人が倒れていたのですよ。
その大惨事の起きた艦として挙がるのが前回名前を出した龍驤艦。
元々は熊本藩が政府に献上した軍艦です。
だからその一部が熊本城の天守閣に飾られていた。
なんだろう、前回脚気と書いたから脚気に繋がったのか、コレ。笑

脚気改善の突破口になったのが、この筑波艦での実験になります。
筑波の乗組員はこの実験に非常に熱心で、海軍がお金が掛かると渋るのを、龍驤と同じ経路で実験したいと言い出して、それを通している。
筑波艦=現場の調査委員は、艦長有地品之允、大尉松村義櫢、軍医青木忠橘と主計片岡直輝の4人。
松村大尉、この熱心者の一人であったと思われます。


この実験で脚気での死者は発生していません。
なので松村大尉の病没の原因は脚気ではない筈。
『海軍脚気病予防事歴』を見ると、84頁に「士官一名腸窒扶斯ニ罹リテ死没セリ」とあり、恐らくこれだと思う。
腸チフスで亡くなったようです。

少しググってみたら、松村義櫢大尉、青山霊園にお墓があるとのこと。
佐賀城本丸歴史館の「佐賀偉人伝」のブログに、墓所と墓碑が紹介されていました。
こちら、読んでいると死因は腸チフスではなく、「のちにこの結果は「脚気1名」と訂正されましたた」とある。
あ?そうなん?
参考文献に上がっていた『軍鑑「筑波」―偉大なる航海―』(岡本健)に

後日の海軍医事報告撮要にはチリのコキンボからハワイまでの航海で「脚気 1 名あり」と記載されている

とある。
そうなんだ。
ちょっとその『海軍医事報告撮要』とやらを確認したいのだけれど、いつの報告か分からない。
デジコレで出ているのは明治25年以後で、見た限りではそういった目次はなく、それ以前の出版のものだと思う。
実験が明治17年なので、明治18、19年あたりのものだろう。


葬儀は明治17年11月18日、青山霊園にて行われています。
長男松村純一により「故松村義櫢葬式ニ付上請」という文書が前日に書かれていて(文書中”佐賀県士族”と書かれている)、これは海軍葬を要請する内容(故松村義櫢海軍大尉会葬式施行許可相成度件 聞届/C11019235400)。

宛先はないのだけれど、筑波艦長有地品之允に渡され、東海鎮守府長官中牟田倉之助が副申(参考意見)をつけ、海軍卿川村純義の手元に。
海軍葬は許可され、軍楽隊が派遣されている。
海軍葬どころか、筑波艦の実験で脚気をほぼ撲滅できた海軍としては、感謝してもしたりない士官のひとりであったのではないかと思います。私としては。


正直、ここまで話が広がるとは思わなかったので驚いてしまいました。
知らないだけで、本当に沢山の人物がひとつの組織を支えているのですね…
そして本当に沢山の人生があるのだと思います。
青山霊園、今度広瀬武夫のお墓参りに行く時に探します。
是非お参りしたい…
関連記事

松村純一 松村義櫢

0 Comments

Leave a comment