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31 2017

落ち穂拾い(2)

明治初期の政治家や軍人、また地方から出てきたその地方の出世頭なんかは屋敷に書生を住まわせて世話をしていたけれど、江藤もまたそのひとり。

江藤新平が世話をした若者の中に福島安正がいます。
日露戦争で児玉源太郎直下の情報参謀であった福島、作戦担当の松川敏胤、兵站担当の井口省吾らとはちょっと毛色の違う参謀で、そもそもは軍人ではなかった。

維新頃から語学の勉強をしていました。
明治4・5年頃に学んでいた先は松本順(良順)の蘭疇学社(洋学校、西洋式病院)で、蘭疇は松本の号になります。
そこでドイツ人の学長を助けて翻訳に従事しており、終いには教授か何かに引き抜かれている優秀な人物であったようです。

ただ国許の経済的事情がそれを許さず、すわ帰国かとなった時に、この学長が司法省のお雇い外国人に相談、そのお雇い外国人が更に上司である司法卿江藤新平に相談した所、

「家に来たら?」

えとう…!いいひと…!
とは言え、江藤の息子ふたりと義弟が蘭疇学社に通っていて、江藤も福島のことを全く知らないという訳でもなかったようです。

江藤は子供に英国人家庭教師もつけていたので、福島にはその通訳を依頼した。
江藤が言うには、傍らでその英国人について勉強すればいいし、それなら福島にも益があるだろうと。
その上経済的な理由があるのならそれも何とかしてあげようと斡旋された職場が司法省。
翻訳で司法省出仕となり、その際の上司が江藤に相談したお雇い外国人です。


江藤は若い頃苦学しています。
父親の失職により城下から離れた小城に住居したり、酷い経済的困窮の中で苦労して勉強しているので、多くの書生の面倒を見ていたのはそうした事もあったのではないかと思う。
福島もその一例であったでしょう。

江藤家、如何にもといった感じの「先生と書生たち」ではなかったようで、かなりアットホームであったみたい。
屋敷の者から江藤の息子が「若様」と呼ばれるのを聞いて、
「馬鹿様みたいやな」
とかいう書生がどこにおる。笑
江藤、それ聞いて笑ってるだけやし。笑


僅か4・5年でわが国の法政体系を纏め上げてしまったキレッキレの切れ者が、実は大変馬鹿正直とか、とっても涙脆いとか、処世術が一切抜け落ちているとか、江藤のそういう純粋な所が大好きなのだけれど、後ろからタイトロープを渡っている姿を見ているようで、明治のたった数年なのに時代が下るほど「累卵の危うき」という言葉を思い出さずにはいられない。

佐賀の乱、江藤が本気であったらばあんな緻密な頭の人が、あんなに杜撰なことをせず、あんな最期を迎えずに済んだのではと思う。
しかしながら、地元での挙兵を鎮撫出来ても出来なくても、下野しただけですんでも、それ以前に下野せずにすんでいたとしても、結局は大久保利通によって社会的にか、物理的にか、抹殺されていたのではないかと思う。
権謀術数ではそれぐらいの力量の開きがある。


佐賀城
(佐賀の乱の舞台になった佐賀城。門に弾痕が残っている)


ステイツマン…ではない気がするなあ…
かといってスタッフなんて小物でもない。
国家のグランドデザインのプランナーというのが、江藤にはしっくり来るのではないかな。
ただそのグランドデザインの方向が大久保と異なるというのが、一番の問題であった訳で。

大久保にとっての江藤は脅威であっただろうと思います。
佐賀の乱の処理のえげつなさがそれを物語っている。
大久保のことも好きなのだけれど、大久保が江藤にした一連の仕打ちは、これだけは本当に目を背けたくなる。
いくら政治的意図があると言っても、数か月前まで同僚であった人間の晒し首の写真を、どうして各役所の壁に掛けることが出来るのか。普通に人間性を疑う。

そしてその反面、ここまで出来ないと混乱した時期の政治家になんてなれないのだろうとも思うのですね。
理想論や綺麗事だけじゃあ、無理だろう。
それに大久保が江藤にした以上の仕打ちなんて、それ以前の歴史では掃いて捨てるほどあるのがそれを証明している。

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