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29 2017

落ち穂拾い

佐賀に行った時に向井弥一の本籍地に行ってきました。
今回、佐賀海軍に辿り着くのは無理かなと思いながらの佐賀行きであったのだけれど、まあそんな感じになった。笑
滞在2日目の夜が雨になってしまったので県立図書館行きは断念。
下調べしていた段階で大して資料がある感じでもなさそうだなとは思っていたのだけれど、行く気ではいたのよう。温泉行くついでに。
6時前だったし結構疲れてたし日傘しかないし図書館まで距離もあったし。
ちょっと残念だなと思いながらもあっさり諦めた。


明治の海軍には佐賀出身者がとても多くて、向井はその中のひとり。
中牟田倉之助、江藤淳の祖父江頭安太郎や、秋山真之の同期森山慶三郎、安保清種や百武三郎など、かなりの数に上ります。

向井は広瀬武夫と同期で海軍兵学校15期。
真直、まっすぐな人であった印象。
大正初期の海軍の収賄事件であるシーメンス事件後の人事を見ていたのが当時実質的な人事局長であった向井で、こういう向井でなければ難しかっただろうという部下談がある。
確か斎藤七五郎だったと思う。
15期のクラスヘッド財部彪が、山本権兵衛長女との縁談について真っ先に相談したのがこの向井と広瀬でした。

一昨年、佐賀に行くつもりで旅行準備をしていた際に、佐賀の向井縁の地ということで御子孫様より向井の本籍地を教えて頂いたのです。
佐賀城より近くもなく、遠くもなく。
とは言え昔の感覚から言うと近い方かな?
向井は下級士族の出ですので、周囲にも同様の身分の武士の家があったかと思います。
県立図書館に古地図があったら見たいなと思っていたので、これが少し残念だった。


向井弥一


で、この向井ちゃんの父の従兄弟が江藤新平なのですね。
知った時は本当に驚きました。
好きな人物同士が繋がっていると知った時の喜び!(笑)しかも親族。
慶応3年生まれの向井、ぎりぎりで江藤に会う機会もあったのではと思うけれど、無かったみたい。
話を聞いたことしかないようです。
まあ江藤は向井の顔くらいは見てるかもしれんけど。

明治7(1874)年、風雲急を告ぐ佐賀に帰った江藤新平ですが、江藤自身が兵を挙げる事は考えていませんでした。
決起に逸る青年たちの鎮撫のためで、江藤が本当に挙兵するつもりであったら、あんな緻密な頭の人が、あんなに杜撰なことをせずに済んだと思う。 
大隈重信も「江藤が本気だったらあんなへまはしない」といったようなことを言っていて、これは本当にそうだと思う。

佐賀の乱は、江藤を頭として佐賀士族が一丸となったのかと言われるとそうではなく、
征韓党 江藤新平(←地元の若い子が勝手に決めた
憂国党 島義勇(←地元の保守派が祭り上げた感じ
中立党 前山清一郎(←上記どちらにも入りそびれた人が祭り上げた感じ
の三派に分かれ、中立党は文字通り中立、征韓憂国どちらにも就かなかった。
就かなかったけれども政府軍に内応しています。


宗龍寺@佐賀 
(中立党が発党された宗龍寺)


前山清一郎は戊辰戦争で殊勲のあった人物で、佐賀藩士としては功績第一等でした。
ただこの時、政府軍側で戦ったことで「裏切り者」とされ、佐賀にいることにいたたまれなくなり一族あげて千葉の八街に移住している。

この前山清一郎の三男が中山忠三郎という人物で、海軍兵学校15期になります。

海兵15期。
マジか…
15期を調べていて驚くことは色々とあったのだけれど、向井と中山の親族関係がトップクラスでした。
このふたり、何も痼はなかったのだろうか。
無かったというには、親世代の話なので時間が近すぎる…

15期は総勢80人、その内の12人が佐賀出身者(本籍地)になります。
当時の海兵生徒は士族出身者が多く、家族や親戚が佐賀の乱に関わっているという人、向井や中山の他にもいたと思う。

これ…何もなかったのかな…
養子先の中山を名乗っているだけでも大分違うと思うし、同期の絆は血よりも濃いと言うけれど、どうだったんだろう。
これはふたりの事を調べてからずっと疑問というか、気になっている事でもある。
お互いがどう思っていたかなんて、当事者にしか分かり得ないことだから答えなんて出ないだろうけど。

向井に関して言うと、若い頃から精神の修養を心掛けていたようで、その上恐らく怒りを持続する性格ではないので(しかも江藤には会ったこともない)、親世代の話はあまり関係なくさっぱり付き合っていたんじゃないかなと想像しているのですが。
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