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27 2017

軍歴証明書ノート(1)

不在になりそうな予感が紛々と漂っているので、個人的メモという感じでぼちぼち調べたことや感じたことを書いてみようかと。
続くかどうか、続いたとして内容が続いているかどうかも不明。
まあ、メモです。
思いつくまま。


昭和12(1937)年7月7日の盧溝橋事件を発端として支那事変が始まった。
当初陸軍が中国は容易に屈服できるとした予測は裏切られ、早い段階から長期化、泥沼化の様相を呈することになった。

砲弾等の軍事物資はあろうことか戦闘開始約2か月後から不足し始めたが、不足を来たしたのは兵隊も同じで、事変勃発の翌年、昭和13年には10個師団(大体20-25万人)が増設されている。

師団は、
明治21年師団設置当初は7個師団、
日露戦争終結時は16個師団、
その後増加を見たけれど、大正後期の軍縮を経て17個師団となっている。

陸軍は来るべき戦争に備えて常設師団増設(戦略単位の増大)に腐心していて、昭和11年には5年を掛けて10個師団増設を計画したのだけれど、これはどう考えても実施が難しい。
その為師団構成単位である4個歩兵連隊を3個とし、余った1個連隊を基幹として新しい師団を増設している(20番代師団)。

ちなみに日露戦争時、陸軍が動員した延べ人数は100万人。
一方昭和15年初頭に中国派遣されていたのは85万人。
85万人ですよ…
日本にとって「事変」とは言いつつ実質は「戦争」、しかも日本にとっては如何に規模の大きな戦争であったかが窺い知れる動員数だと思います。

ちなみに盧溝橋事件から日米開戦辺りまでは「支那事変」。
宣戦布告していないので、法律上「戦争」にはなりません。
日米開戦後に中国側から宣戦布告されて、それ以後は「日中戦争」になります。
まあ、盧溝橋事件から敗戦までひっくるめて大陸での戦争は日中戦争ということが多いかなと。


ちなみに師団の人数は時期によって変わるため、大体この程度という感じ。
平時では1万人程度。
戦時では大体2.5~3.5万人程度ですが、約2.5万と覚えておくのが固いです。
3~4個歩兵連隊を基幹として野砲連隊/山砲連隊、その他諸々がついたりで一定しない。

しかし10個師団増設って、一口に言うけど凄いな。
明治末期に2個師団増設で内閣が潰れるほど揉めたというのに…


話を戻すと、支那事変後に兵隊の数が足りなくなったのです。
何と言っても中国は広いのである…
中国に派遣する師団作るのはいいのだけれど、ではその兵士をどこから連れてくるのかという事ですね。

簡単な話で、徴兵率を上げたらいいという話。


周知の通り、戦前日本国籍の男子は満20歳になると徴兵検査を受ける義務がありました。
20歳男子は壮丁と言われたので、壮丁検査とも言われます。
この検査結果はその場で出て、甲・乙(1種/2種)・丙・丁・戌の5段階に分かれます。
現役兵に適するとされるのは甲種合格、乙種合格の壮丁。

ただ合格したと言っても、合格者全員が徴兵される訳ではありません。
昭和8年頃でも実際に徴兵されたのは、徴兵検査受検者数の20%程、5人に1人であったそうです。
そもそも甲種合格するのが難しかったらしく、受験者数の内30%であったそうで。
意外と狭き門だったのか…?

これが支那事変以後に状況が変わり、第2乙種合格まで現役兵として徴兵されることになっています。その後の徴兵率を見ると、

昭和13(1938)年 46%
昭和15(1940)年 50%
昭和19(1944)年 77%
昭和20(1945)年 90%

昭和18年には徴集年齢が満19歳に引き下げられていてね、その上学生や教員等への徴兵猶予の特例が撤廃されている。
学徒出陣はこうした流れによります。
昭和19年の徴兵検査受検者は、19歳と20歳、つまり通常の2倍であった訳であるけれど、それが77%。
(最後の方とか、徴兵検査の時に検査官に言われるがままグーパーをしたら合格、とかだったらしい)

敗戦時には動員可能とされた満17~45歳の男子総数の41%が陸海軍に動員されていたそうです。
その上敗戦間際の6月には義勇兵役法ちゅうてだな、15歳~60歳の男子、17歳~40歳の女子を戦闘に参加させることが出来る、という法律まで出来とるのだよ。

こうした末期的な状況は「根こそぎ動員」と言われるのだけれど、改めて見ると本当に容赦ない根こそぎで、本当に驚いてしまう。

そしてうちの祖父は昭和15年に第1乙種合格。
丁度満20歳男子の2人に1人が徴兵され始めた時期に兵隊にとられることになった。
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