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01 2014

石部金吉金兜

 『条約派提督 海軍大将谷口尚真―筆録『鶏肋』に見る生き方

偶然存在を知って借りた。
谷口は割と重要な人物だと思うのだけれど、いかんせんネームバリューがない…
伝記があるようなのだけれど遺族の私費出版で、ちょっと縁遠い。
ようやく手の届く伝記が出たかーと思ったのだけれど、果たして内容は訓示集でございました。ちょっと残念。

谷口尚真(なおみ)は明治3年の生まれ。
海軍兵学校の19期で、15期である広瀬武夫や財部彪らとは年が近い。ふたりは明治元年と慶応3年の生まれ。
海兵では広瀬たちが4号生徒(最終学年)の時に1号生徒として在学しているので、顔位は見知ってたのではなかろうか。
ちなみに19期には百武三郎や飯田久恒がいます。
以前サイトで更新した財部彪の話でも谷口の名前を出したのだけれど、財部とは同僚であったり、上司下僚であったりと職場を共にしていた期間が割りとある。

そういう事もあって、財部の情報を得るのに谷口の本はないのかと思っていた。
財部も纏まった本が全然ない人物だけれど、谷口も同様だった。私家版じゃなあorz
山梨勝之進とか堀悌吉辺りの本で何か情報がないかと思うも…ないですなあ…
手元にある軍事史学の人物文献には谷口の項目さえなかったわー


谷口の名前は、財部の話をサイトで更新する以前に出したことがあります。

http://blog-imgs-49.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/0191.gif


広瀬武夫の柔道人脈の件でした。
とはいえ谷口が直枝子さんと結婚したのも広瀬が亡くなってから随分後の話で、今のところ彼と直接的な関連がどうこうというのは分からない。
本当に名前が出ているだけ^^;


谷口は阿川弘之の『米内光政』に出ており、それで印象に残っている所が大きいです。

のちに機と織り物のデザインで名を成す柳悦孝(<略>)が、谷口の義理の甥にあたり、少年時代呉の長官官邸へ伯父を訪ねた時の思い出を、
「箱みたいな四角な頭をしていて、大きな胴体の上に頑丈な箱をのっけたような感じの人でした」
と語っている。


箱みたいな四角い頭かー(笑)

http://blog-imgs-49.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/0222.jpg

そ、そうかな?写真と実物は違うのかも…


柳悦孝は上の系図では略してありますが、柳楢悦の孫に当たる人物。
『米内光政』によると、男子が皆海軍とは無縁の道を選んだため、楢悦夫人がせめて悦孝は祖父のあとを継いで欲しいと海軍に入る事を望んだとあります。でも本人は美術に興味があって海軍には入りたくなかったらしい。
しかし世話になってるばー様のいう事なので、とりあえず呉にいる谷口(当時呉鎮の長官)に相談に行った。
そして健康状態のチェックのためか、紹介状を持って呉の海軍病院に行き検査をした所、胸に少し影が出ていて兵学校を受験するのは無理かもと言われ、

「私はすっかり嬉しくなって、伯父に『おかげ様で』と報告しましたら、『何がおかげ様でだ』と叱られましたがね」

何がおかげ様でだ。

この印象が強い(笑)。
『米内光政』にも谷口は「謹厳居士」と書かれているけれど、本当に滅茶苦茶真面目な人だったらしい。
 
 
谷口は聞えた謹厳の士にして見識も高く、典型的な武将である。
今日でも谷口の部下になった事のある者は「立派な提督でした」と欽仰しているほどであるが、何しろ身を持するに余りに謹厳であるということは、それを他人に強要しなくても、部下となればすこぶる窮屈を感ずるものである。
(『一軍人の生涯 提督・米内光政』)


谷口尚真、米内光政、斎藤実 


大正14(1925)年、米内は第2艦隊参謀長として旗艦山城に赴任しますが、その時の司令長官が谷口だった。
米内はちょっと窮屈だったのか、

「河の水魚棲むほどの清さかな」

という句を書いて谷口に渡した。
これはあれか。
「白河の清きに魚も棲みかねて 元の濁りの田沼恋しき」か米内さん(笑)(違う)

これに谷口は「ありがとう」と言って嬉しそうに笑っていたそうです。
(…嬉しそうに…?)


続く

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