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28 2017

昭和天皇と周囲の人々(主に明治)(6)

昭和天皇の周辺、続き。

★★昭和53年12月4日の記者会見

記者:足立タカさんは鈴木貫太郎首相に嫁がれたわけですが、二・二六事件の時はいろいろ陛下もご心痛だったと思うんですが。

天皇:そのことは、かえって記者あたりの方がよく知っていると思いますが(大笑い)、
鈴木タカが、首相が非常に悲しむべき状態になった時に屹然として、もうこれ以上殺さずにという希望を述べたということが話に載っているように思います。


『陛下、お尋ね申し上げます』にある戦前の臣下の話で、一番ボリュームがあるのが鈴木貫太郎。
2・26事件と終戦関係の話は、記者でなくても興味はあるよな…


昭和11年2月26日未明に起きた事件で、内大臣斎藤実、大蔵大臣高橋是清、陸軍教育総監渡辺錠太郎が即死。
首相岡田啓介は無事でしたが、人違いで義弟松尾伝蔵が殺害されています。


斎藤実、岡田啓介、高橋是清


当時侍従長であった鈴木貫太郎も襲撃され、銃で撃たれて本来なら即死であったのでしょうが、妻たかの行動により奇跡的に一命を取り留めております。

老臣らを襲撃した青年将校の言い分は「君側の奸を取り除く」というものでしたが、昭和天皇から見た彼等は紛れもなく「股肱の臣」(最も信頼をおく臣下)。
それを虐殺した。
国家から与えられた武器と兵まで使って丸腰の老人を。

昭和天皇は激怒します。
決起将校たちに対して同情的であった川島義之陸相に対しても、また侍従武官長であった本庄繁に対しても非常に激怒しております。

本庄の娘婿は決起将校のひとり山口一太郎(秋山真之と同期の山口鋭の甥)で、本庄は襲撃の事を予め知っていた人物でもある。

本庄は昭和天皇に、
「軍隊を勝手に動かしたのは許されるものではないが、天皇と国を思う精神からでたものであるので、咎めないでほしい」
と、立場を利用して何度も進言するのですが、昭和天皇は決して肯んぜず、こう言い放ちます(本庄日記)。


「朕が股肱の老臣を殺戮す、
此の如き凶暴の将校等、其精神に於ても何の恕すべきものありや」

「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて朕が首を締むるに等しき行為なり」


ブチギレである。


鈴木貫太郎、たか


鈴木貫太郎はこの事件時、股と左胸、頭と肩に銃弾を撃ち込まれています。
指揮官安藤輝三大尉が止めを刺そうとした時に、妻たかが止めてくれと懇願した。
鈴木は直径1mほどの血の海の中に倒れている状態で、ここで息の根を止めなくても助からないだろうと判断されたため。

また、たかの緊急処置が良く、さらに医者がすぐに駆け付けた為、鈴木は何とか一命を取り留めました。


***


★★昭和55年9月2日の記者会見

記者の、元侍従長鈴木貫太郎と大変長いお付き合いがあったと聞いているが、何か思い出があれば聞かせて下さい、との質問に対して。

天皇:
鈴木とは苦楽を共にしました。
なかんずくニ・二六事件は最も不幸なことだと思っています。
その時の印象は、今日もなお強く残っています。
それから、鈴木が総理になったということは、戦いを終わらせることに力があったと思います。


記者の、2・26事件の印象は特に強烈だったと思うが、特にどういう点がと問われて。


天皇:
そのニ・二六事件の時のことは、皆も知っているように、鈴木が反軍のために襲撃された、
あのことが一番印象が強くあることですが、このことはかえって新聞記者が知っていることと思います(笑い)

記者:
いや、いつもそれでまいっちゃうんです(大笑い)。
陛下、あの鈴木侍従長が襲われたということを聞かれたのは、どこで聞かれたんですか。

天皇:それは皇居で聞きました。

<略>

記者:
それから当時の侍従武官長本庄繁大将が『本庄日記』の中で、陛下が大変お怒りになって直ちに鎮圧するようにとおっしゃったとか記しているわけですが、事実でございましょうか。(※土原註:上記本庄日記の引用部分のこと)

天皇:それは大体、事実だと思います。

記者:
鈴木貫太郎総理の自伝の序文の中で、終戦の8月15日の夜、鈴木総理が自宅へ戻ると、陛下が非常によくやってくれたと二回いわれたと、それで総理が感涙にむせんだということを息子さんが書いていらっしゃいます。
やはりそういうことはあったんでございますか。

天皇:
あるいは、そういうことをいったかもしれませんけれども、今覚えていないですけど。

記者:
終戦における鈴木総理の力というか、鈴木総理をおいてあの決断で終戦まで持っていくことはむずかしかったのですか。

天皇:
ええ、そうです。
なかなか閣議でも、御前会議の席上でも、伝わっているように決定が鈴木総理ではできなかったので、鈴木総理が私の意見を求めたからいったわけです。

しかし、さっきもいったように、鈴木のような人が総理になったということは、そういう御前会議のような状況ではありますけれども、そういうことになるのも、鈴木総理だったからできたのかもしれません。

記者:
陛下、御前会議で意見が三対三にわかれてしまって、総理としては裁断をすることができなくて、ご聖断を仰いだわけですが、陛下のご聖断を仰ぎますというようなことは、事前に一応のお話はあったんでございましょうか。

天皇:それは今、はっきりそうした記憶はないんですが。
記者:やっぱりその、ひとつのアウンの呼吸といいますか……。
天皇:ええ。


******


特に終戦の部分に関しては、鈴木の事を信頼されていたということがよくわかる記者会見であると思います。
しかし阿吽の呼吸でか。
こういう国家存亡の秋にこういう人物がいたというのは、日本にとって本当に幸運だったと思います。
鈴木は「九死に一生」の連続ですが、このために生かされてきたんじゃないかなあ…


と、まあこんな感じでこの話は一旦終了である。
なんというオチのなさ。笑
後はそうですね、西園寺公望の話が少しあったのと、加藤友三郎の名前が一ヶ所だけ。

加藤は関東大震災の直前、大正12年8月24日に亡くなっています。
当時皇太子として摂政を務めていた昭和天皇、箱根にいく予定だったのが加藤の死去に伴い政変が起こり、東京にいた。
大震災は9月1日。
より震源に近い小田原、箱根の被害はとても大きくて、避暑に来ていた皇族数人が亡くなっている。

箱根は震災で大被害を受けたが、もし箱根に行っていたら……加藤が守ってくれたのだ

こう言われれば加藤も本望だろうなー…
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