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14 2014

(7)佐久間象山 2

西洋砲術を習いにいったのに思うように教えてもらえず、40日ほどで江川太郎左衛門の塾を退去した佐久間象山。
江戸に帰った後は高島秋帆の高弟である下曽根某に頼んで、伝書を見せてもらっている。
江川の紹介もあり簡単に見せてくれたみたいで、佐久間は下曽根に後々まで感謝していたようです。

それはそれでいいんですが、佐久間は江川や高島の立場を慮るというか、本当に政治的空気が読むことができなかった(もしくはしなかった)のか、教えてもらえなかったことにめっちゃ不満たらったら。
数年後には江川を痛罵していまして、これが非常に有名なものになっている。

公開すべきもの伝書だ秘伝だといって一人占めしているとか、古きを守って前進がないとか。
思うのは勝手だけど、そういうことを人に吹聴しまくるから人徳がないとか言われるんだと思う^^;


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/sakuma.jpg


江川が当時の佐久間に対する所感を残していないので、一方的な佐久間の批判だけが有名になってる気がする。
まあね、それがフェアじゃないと思うんですよ私…
ぶっちゃけると私自身は江川が好きで、佐久間があんまり好きじゃないっちゅうのがあるので、余計なんだけど。

うーん、なんてーか…
優れた人物であると思うんですけど、その反面大言壮語癖の強い山師じゃねーの?過大評価されすぎじゃねーの?とも非常に強く感じる。
素晴らしい所があるのも、わかるんだが。


佐久間象山を紹介する際の肩書のひとつに「蘭学者」と入ると思うのですが、実際にどの程度の蘭学ができたのかというのを研究した本がある。
佐藤昌介『洋学史の研究』で、これを見ていたら、うん…
…おい…って感じになるよ^^;

佐久間が西洋砲術を知るには原書を読めないと話にならない!と奮発して34歳でオランダ語の勉強を始めたことは有名です。
で、それと一緒に短期間でマスターして蘭書を読めるようになったと紹介されるけれど、あれ、多分…かなり大袈裟…(言葉少な)

本当に必死になって勉強したというのは事実のようです。
でも自称する程の、世間に思われている程の読解力はなかったみたい。

辞書があれば大抵読めると言いつつ、実際には知り合いの蘭学者に助けてもらって読んでいたり、原書主義で翻訳なんて読まないよ!といいつつ、翻訳書を読んでいた形跡があったり。
同時代の最高峰の蘭学者が手分けして翻訳したものを、駆け出しの佐久間が原書を読めたとは思えないってな本まであるようで。

松代藩が、佐久間が持っている筈の砲術書を長州の蘭学者に頼んで藩士に講義してもらったり(しかも藩主真田幸貫が長州藩主に直にその蘭学者の滞府期間延長を懇願している)。
本当に読める程の学力があるなら佐久間にやらせればいいじゃん、っちゅう…
佐久間が言っていることをそのまま受け取るのはちょっとキケン^^;

高島流を旧守して前進がない、西洋の書物から直接学んでいないからあれは偽物だ。
佐久間はそういう江川批判をしていますが、実際にはそれは違っている。
江川は雇った蘭学者に蘭書を翻訳させて新知識を吸収し、砲術、銃砲・弾薬の製造技術を前進させていました。
遅れを取っていたのは寧ろ佐久間の方だったようです。

…別に佐久間をあげつらいたい訳ではなく、江川に対する評価が気に入らないだけです…


ところで、佐久間象山が蘭語を勉強しようと発奮するきっかけを与えたのが、坪井信道という蘭学者になります。
大槻玄沢の孫弟子で、緒方洪庵の先生になる。
ちなみに坪井が蘭語の師として佐久間に紹介したのが黒田良安で、この方の甥が三宅雪嶺になります。

坪井先生、高野長英と交流があったらしい。
同時代人なのであっただろうなとは思うけど、どういう付き合いであったのかは調べてないのでよく分からない。
ただ、高野との付き合いで随分嫌な思いをしていたのは確か。笑
その話を残したのが大槻文彦になります。


大槻三賢人


上の写真は岩手県一関市の一関駅前にある大槻三賢人像。
大槻玄沢、大槻磐渓、大槻文彦。仙台藩。

一関には建部清庵という優秀な医者がおり、この先生が江戸の杉田玄白と医学についての問答をしていました(文通)。
で、その結果優秀な弟子を江戸の杉田の元に弟子入りさせるわけですが、そのひとりが大槻玄沢になります。
そしてもうひとりが建部の息子で、こちらは杉田の養子になった。杉田伯元です。

高野長英が勉強をしたくて江戸に出た頃は杉田伯元の代でした。
その伯元に住み込みで勉強させてくれと依頼している。
出身が岩手水沢で一関と同じく仙台伊達の支藩であり、また高野の養父も杉田玄白の門下(つまり伯元や玄沢の兄弟弟子になる)であった誼から頼ったようですが、すげなく断られています。

同じ学問の世界にいる仲間ということもありますし、杉田家との関係を考えても大槻家には色んな高野長英の話が伝わっていたようです
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2 Comments

ジゴロウ  

蘭学…とくくったらちょっと違いますが、間宮、、高野、佐久間と、人にあまり好かれないのが並びましたね…

間宮には川路、高野には二宮敬作とか崋山といった敬愛(また違うかも知れませんが)してくれる人がいましたが、佐久間だと勝なんですかね…

なんか、そうかんがえたら佐久間も後悔…しないでしょうねぇ

2014/03/15 (Sat) 02:30 | EDIT | REPLY |   

ヒジハラ  

>ジゴロウさん

そうですね!アクが強い方々が並びました(笑)
佐久間はやっぱり真田幸貫や吉田松陰でしょうか。川路聖謨もそうかも。
弟子でも慕っていた人はいたでしょうし…
勝は褒めたりけなしたりと、何だか微妙なところがあります^^;
才能という点では蟄居が許された後に徳川慶喜に認められたり、土佐・長州が招聘しようとしたり、時代に求められるところがあったのだと思います。
もう少し丸い所があれば、同時代の評価も、現代の評価ももっと違ったものになってたかもしれませんね~^^;

2014/03/15 (Sat) 22:36 | EDIT | REPLY |   

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