Para Bellum

ARTICLE PAGE

02 2017

ダイバーシティ(2)

海兵26期、日露戦争当時大尉であった山本信次郎ですが、明治10年の生まれになります。
明治29年に海兵に入って31年に卒業、少尉任官が明治33年1月。
明治38年の日本海海戦当時だと28才。

この様子から考えるに、フランス語がペラペラになる程勉強する時間はあったのかと思うのですが、抑々勉強をしていたのは海兵入学以前の中学生の時でした…

山本が通っていたのはフランス系カトリック校、暁星中学校になります。
今もありますな。
伝記によると、山本が通っていた当時は週の内3日はフランス語、3日は英語の日と決められ、それぞれの日にはそれぞれの言葉で話さなければ主張が正しくても認められなかったそうです。
中学生という頭の柔らかい時期に4年も(それも寄宿舎で)こういう生活を送っていたら、そらートリリンガルにもな(れ)るだろう。羨ましい。


山本信次郎


山本が加藤友三郎参謀長、伊地知彦次郎三笠艦長に呼ばれて、ロシアの旗艦ニコライ一世に行くよう言われたと前回書きましたが、その場には東郷平八郎司令長官と秋山真之参謀もいたと山本の回顧にあります。

うーん、これを見てもこの人が選ばれたのはやっぱり語学力じゃないかと思うんだなあ…
恐らく上官たちは山本が語学に堪能であることをよく知っていて選んでいると思う。
特に東郷平八郎。


上村彦之丞 秋山真之 東郷平八郎 島村速雄 舟越楫四郎


明治33年に義和団事件が起きた際、山本が乗組んでいた笠置が中国に派遣されています。
中国には英・独・仏・伊・米・豪・露、そして日本を含む8ヶ国の連合軍が共同で出兵していました。
山本はその列国代表の会議に通訳として出ていたが、いちいち上官の返事を待っておられず直答するような場合も生じてきてしまったそうです。(どんな状況だよと思わんでもないですが…)

しかもその内に問題が自分で責任が取れない位にどんどん大きくなってきて、

山本「早く辞めさせて」(´;д;`)

そらー…
当時山本は少尉に任官したばかりの23歳ですので、悲痛な嘆願だったと思います。笑(こら

上官「旗艦が到着したら通訳できる高級副官がいるに違いないから、それまで待て」

しかしやってきた旗艦の高級副官では話が通じなかったのであった…


結局山本は通訳として呼び戻されます。
そこで外国艦隊との折衝等のために”常備艦隊付”という肩書を与えられ、一時期ではあれ常備艦隊司令長官の幕僚になっていた。
これが山本が少尉に任官して半年後の出来事。
そしてこの時の常備艦隊司令長官が東郷平八郎中将でした。

ロシア海軍の司令長官との会議時、山本は何度か東郷に随行していたようですし、幕僚の中でも山本がとびっきり若いので、東郷も彼を可愛がったようです。
(というか、この時何語で通訳したんだ)


そういうこともあって、ニコライ一世への軍使随行の件は山本一本釣りだったんじゃないかなという気がするのですね。


はい、続きます。
関連記事

秋山真之 山本信次郎 東郷平八郎

0 Comments

Leave a comment