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03 2014

新史料数万点(西南戦争史料など)

ニュース、出始めたら続く^^;
伊藤博文とかのニュースは出んのやろか~(笑)

http://blog-imgs-58.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_02030280.jpg

こっちは以前ちょっとだけ書いた、吉田松陰の辞世の句が京都の井伊美術館から出てきたというもの(産経新聞2014/1/24)。
なんでも長野主膳の手紙の巻物に張り付けられてたんですって。
あ、そうなんだというくらいなので、この話はこれで終わり。

で、もうひとつ今日は大きなニュースが…

http://blog-imgs-58.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_02030279.jpg
(産経新聞 2014/2/3)

西南戦争など 新史料数万点 (産経新聞 2014/2/3)
西南戦争史料など数万点 本草漢学塾跡で発見 岩倉の暗号表 「情報戦」物語る (Sankei Biz 2014/2/3)
重文級、岩倉具視の暗号表発見…西南戦争で使用 (読売新聞 2014/2/3)

いくつか検索して、詳しかったのが産経グループの記事でした。
新聞記事とネット上の記事とで内容が若干違うってなんなの(笑)

史料が出てきたのは京都、本草漢学塾「山本読書室」の土蔵から。
山本読書室て^^;
えらい近代的…というか現代的なネーミングだなと思ったのですが、読売新聞の記事によると、塾が開かれたのが1811年。
明治維新の50年ほど前の話で、西日本における本草学の拠点だったそうです。
医学とか儒学も教えていたとのこと。ふーん。

土蔵に納められていた史料は数万点とあるけれど、具体数がわからない。
2年半の調査を経て目録を刊行したともあるので、そちらを見たらわかるのか。
重要文化財級の史料が少なくとも数百点が含まれ、菅原道真直筆の可能性がある写経なんかもあるそうで。
岩倉って言ってるのに菅公って。
時代がえらい散ってますが、平安~明治の史料があるそうで。
その上古文書、書画、博物標本、歴史的書簡などの多岐に亘るとのこと。すげえ。

Sankei Bizにいくつか具体的な史料が挙げられていました。

・岩倉具視が使った円盤状の暗号表 ほか秘密電信文61通
・徳川慶喜が江戸攻撃中止を求めた直筆哀訴状
・菅原道真直筆の可能性がある写経
・13世紀の源氏物語の写本
・16、18世紀のオランダ語植物図譜
・日本の本草学をリードした新井白石や貝原益軒の書簡
・日本の本草学の象徴・松岡恕庵の採薬刀
・国内で唯一現存する江戸時代の極楽鳥標本
・将軍家侍医の桂川甫周が模写した「犀図」

ほかの新聞の記事見たら、藤原定家の直筆とか極楽鳥の標本なんかもあるんだって。

創設者の孫が岩倉具視の秘書で、『岩倉公実記』の編纂に携わっており、その際に収集した参考史料数百点を所蔵していたとのこと。
……。
……………あ?
『岩倉公実記』?
それって、広島から出てきた1700点と仲間になる史料ってことじゃないの?
1700点にさらに数百点上乗せか…
すごいね…
あと5年位したらまったく違う見解が出てきたりするっていう歴史的事象もあるんじゃない?
本当に最近は大規模な史料発見が続きますね。嬉しいことだ^^


【追記】 2014/2/11

読売新聞(2014/2/3・夕刊)を確認しました。 
      
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本記事によると、山本読書室は山本亡羊主宰、1811年~1903年、本草学の一大拠点であったとのこと。
1903年か~明治36年だよ!
確認されたのは書類約6000件、書画類約1000件、他博物標本など。
うち岩倉具視関係の史料が数百点。
しかし数万点て…^^;

この山本読書室、所在地は堀川五条のすぐ近くの油小路通。
伊東甲子太郎が暗殺された通りの直線上にあったんですな。
京都といえば幕末に蛤御門の変で焼け野原になっていますが、こちらも火災に遭ったものの、土蔵は焼け残ったとのこと。
ここ70・80年誰も手を付けていなかったそうで(ということは戦後誰も触ってなかったということ)、それも史料が散逸せずに残った理由のひとつだろうな~。


で、この繋がりで2014年2月6日の産経新聞。

「『江戸攻撃延期を』和宮の直筆哀訴状 顔なじみの官軍司令官・岩倉具定に」

https://blog-imgs-58-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_02110261_R.jpg

徳川慶喜の哀訴状と同じく、内容は知られていたけれども直筆が出てきたというもの。
岩倉具定は岩倉具視の息子、和宮とは顔なじみだったそうです。
和宮はその縁を辿って新政府軍の進軍を延期してくれるよう嘆願したとのこと。
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