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15 2015

ツミとバツ(2)

『江戸時代の罪と罰』、続き。

http://blog-imgs-72.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20150113.jpg


江戸中期の無礼討ちの話も載っていて、お侍も大変だなあと。
旗本が熟睡中に妾に切り付けられて重傷(後死亡)を負い、しかも妾を取り押さえられなかったのが武士としてあるまじき失態としてとして改易、武士身分の剥奪という処分が下りている。

無礼討ちは時代劇でもよく出てくるシチュエーションだと思います。
武士が道を歩いていて→町人か誰かがぶつかって→無礼なり!→ずばーん、みたいな。

あのね、そんなの実は出来ません。
無礼討ちはそんな簡単にできるものではなく、正当な理由なく人を殺すと武士でも罪に問われます。
この際の正当な理由というのは「相手が武士の名誉を汚す無礼を働いたかどうか」です。

働いていたら問題なし、働いていなかったら武士の方が改易や廃嫡になったりする。
内容の程度の問題もあり、「なにも殺すことはなかった」と言われて罪に問われることもある。
ただ無礼をはたらかれたにも関わらずそれを見逃すと、これも武士の失態として問題になる。

無礼討ちは大変リスキーです。
人に知られなかったらそれで済んようですけど。
問題になっているのが「武士としての名誉」ですから、妾に切られた怪我で死亡なんて言い訳のしようがないわな。


そして見たことのないものが。


http://blog-imgs-72.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2015114_2.jpg


黄紙。
曰く、江戸時代は多くの罪人が重罪となったが、三奉行や火付盗賊改等の判断だけで遠島や死刑等の重刑が即決したわけではない。
重刑を言い渡す場合、また刑の決定を迷う場合は老中に仕置き伺いを提出し、どういった刑にすべきかの指図を仰いだ、とのこと。
その際の犯罪事実などを記した吟味書に張り付けたのが上写真の黄紙だそうです。
現存するのが稀と書いてあるので、大分少ないんだろう。

あーやっぱりこんなのあるんやなと思いまして。
印象が強いのでつい引き合いに出してしまうのですが(笑)、時代劇でも結構ある場面ですねえ。
実は拷問するにも老中の許可がいるんです。

とは言え幕府が認めた拷問は吊責めの1種類しかありません。
笞打ち、石積み、海老責めは幕府の法律では牢問(責問)といいます。
牢問は奉行所の担当者の判断で出来たのですが、時代が下ると上司の許可が必要だったようです。
それに実際には海老責めなんてめったになかったみたい。

町奉行所の役人が好き勝手に容疑者をしょっ引いてピシーパシーと鞭で打ったり石抱かせたり宙に釣ったりしてはいけなかった。
いけなかったんですよ。

岡っ引きや下っ引きが勝手に町人をしょっ引くのももっての外で、実際には「御手当の事」という捜査令状が必要でしたし、入牢させるには町奉行の許可が必要だった。
上記の様に拷問には老中の許可が必要で、それも条件を満たさないと許可は下りません。
それが厳格に適用されていたかという問題はあると思うけれど、時代劇で見る印象とは結構違うと思う。


当時の、特に江戸時代後期の感覚としては、体に聞かないと白状させられない吟味役は「腕が悪い」んですよ。
なので牢問や拷問はあまり推奨しないし、積極的には認めない。
処刑するにしても自白させずに命を奪うのは不当だという考えが底にある。
話を聞いて説得したり宥めすかしたりして白状させるのが御手柄で、吟味役の腕の見せ所なんである。
そうは言っても常識的に考えて自白主義には限界がある。
それは当事者が一番よく分かっていて、ジレンマでもあったようです。

ただこの辺りの考え方を見ると、私は戦前の憲兵なんかがしていたことを思い浮かべてしまい、近代の方が人間らしさの箍が外れてよっぽど野蛮だと思う訳です…
まあ江戸時代は今と違って科学捜査の手法がありませんので、冤罪が多かったのは事実の様ですが。


とにかく、上記した事もあり町奉行所も犯人を捕まえる時は殺したらダメなんです。怪我をさせたらダメなんです。
生かしたまま捕縛して、話を聞かないと。
高野長英は捕縛の際に滅多打ちにされてますが(そしてそのまま死亡…)、あれは奉行所のあるまじき失態です。

ただ火付盗賊改方は乱暴です。
こちらは特別警察ではあるのですが、町奉行とは違う組織で、犯人斬り捨てが許されていた。
どう違うかというと町奉行は役方(文官)、火盗改は番方(武官)で、警察と軍人みたいな感じか。
どうしてもやることが荒くなる。
拷問にも勝手に掛けちゃうし、その上殺しちゃうし、組織が出来た初めの頃は怪しく見える人間を片っ端から捕まえて処刑してたなんて話もある。ガクブル。
当然町奉行所との仲は悪い。^^;
鬼平犯科帳を読んでいるとどうしても火盗改寄りになってしまうのだけど、嫌われるにはそれなりの理由がある。笑


「岡っ引き等が勝手に町人をしょっ引くのももっての外」と書きましたが、実際には結構好き勝手しょっ引いてました。(おい…)
岡っ引き(目明し)は半七親分や銭形親分でよく知られていますが、あんな正義感を持った岡っ引きとかいたのか、というレベルだったのでは?^^;
一定数は正義漢もいただろうけどさ…
あまりいなかったから物語になったんだろうなーとも思う。
岡っ引きは大体前科者です。
元犯罪者や土地に顔の利く893の親分、まあそういう、うん。
町方同心の仕事のひとつは犯罪捜査ですので、蛇の道は蛇で、ほぼ同業者から情報を吸い上げて捜査してるんですよ。

そもそもあまり素性の良くない人間がお上の手伝いをしているという点で大体の想像が付きますが、お上の威光を暈に着て岡っ引きやらの一存ででっち上げをし放題な訳です。
適当な罪を作って同心から捜査令状を貰ってしょっ引いて、金品の強請たかりをする。
それで満足したら同心には「違ってました(てへぺろ」で済ませる。

流石に問題なので幕府としても目明し禁止令なるものを出したのだけれど、そうなると同心が仕事が出来なくなるという悪循環。
結局幕府がなくなるまで使わざるを得なかった。


他にも面白い話が結構あったのだけれど、明治6年に冤罪で投獄された旧松山藩士の話が意外でした。
翌年に無罪と判明して釈放されたそうですが、この方常磐会の創設を旧藩主に提案した人だった。
た、大変だったんだな… 
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2 Comments

ジゴロウ  

井伊直弼が、安政の大獄時、刑を決めるときに、幕閣から問い合わせされた話は知ってましたけど、黄紙のようなことをしていたのは意外でした。
庶民の犯罪には、結構、罰の決定の手続きが、簡潔なイメージがあったもので…

知れば知るほど、犯罪者にも人道的だったのが印象的でしたけど、管理の甘さも、印象的でした…

2015/01/16 (Fri) 22:16 | EDIT | REPLY |   

ヒジハラ  

>ジゴロウさん

知らないだけで偉い人が意外と細かい所まで目を通していたんだな~という感じがしますね。
拷問にかけるような重犯罪が今と違って少なかったからそれでもいけたのかもしれませんが、自白強要などの問題をできるだけ防ごうとする工夫だったのかと思います。
ただジゴロウさんもご存知と思いますが、政治犯に対してはめちゃくちゃ厳しいです…
拷問の許可要件にも入っていたように記憶してます。

管理甘いですよね(笑)
ものによってはザルだったんじゃないかと思います…^^;

2015/01/16 (Fri) 23:22 | EDIT | REPLY |   

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