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02 2014

海軍兵学校15期!(2)

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この話は8回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話> FRWL(広瀬武夫コーナー) > 考察・考証 よりどうぞ。
題は 「We are!」 に変えています。

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続き

明治20年代前後だとまだまだ草創時期で、制度を含めた様々な点が目まぐるしく変わっていくというのがよく解ります。
広瀬武夫が海軍兵学校に在籍していた当時には大きく2つの変化がありました。

1.明治20年7月 海軍機関学校廃校、兵学校と統合(26年に再度独立)
2.明治21年8月 海軍兵学校、東京築地から広島県の江田島に移転

機関学校生徒が兵学校に編入というか、転入というか、してきた。
総勢95人。
兵学校では上級生から1号、2号、3号、4号と学年を称していましたが、転入してきた機関学校生徒はこれと区別して、甲号、乙号、丙号と称しています。
機関学校の学年で分けているようです。

1号と甲号が一緒に、乙号は単独で、2号と丙号が一緒に卒業。
1号(64人)と甲号(16人)を纏めて80人が15期生となる。
ちなみに15期の卒業写真は1号と甲号別々で撮影しています。
また卒業年(明治22/1889年)が巳丑の年であったことから、巳丑会というクラス会を作っている。


15期は財部彪クラスですが、機関学校からの生徒のみで構成される16期には井出謙治や田中耕太郎、船越楫四郎といった方々がいます。
17期は秋山真之のクラス。
秋山クラスの入学年度は15期、広瀬たちの翌年ですが、間に挟まった乙号が先に卒業したため、17期として卒業しています。

ちなみに財部彪ですが、彼は広瀬らの前年度の入学者です。
順当にいけば14期として卒業するはずでしたが、病気で休学し1学年下に降りてきた。
広瀬らが2号生徒の時らしい。
財部が降りてくる前の首席、次席は小栗孝三郎と中野直枝だったそうで。
小栗は大将、中野は中将にまで昇進していますが、賢い人は流石に賢いらしい…
卒業の席次も5番と4番である。


小栗孝三郎、百武三郎、佐藤鉄太郎、井出謙治、中野直枝


幾ばくかの広瀬の家信から察するに、兵学校と機関学校、校風が結構違ったのではないかと思います。
明治20年9月25日付の書簡で、

機関科ヨリ来リシ者ハ、一体元気者少ナキ風ニテ、甚ダ不都合ナルコト有之。
先日ノ如キ、人ノ帽子ヲ換ハリシヲ幸ヒ、之ヲ纏ヒテ誤魔カシ候モ有之故、
懲戒ノ為、小生之ヲ撲チ候事有之候程ノ事ニテ、実ニ慨嘆ニ堪ヘザルコト共多ク候。



こういったことが書かれている。
殴りつけたかー


海軍兵学校


前々から思っていたのですけど、海軍兵学校の鉄拳制裁(兵学校では修正と言った)っていつ頃からなんでしょうねえ…
山本権兵衛がいた頃のあれは、ちょっと違うと思うし…^^;
大正7年に鈴木貫太郎が海兵の校長になった際に鉄拳制裁を禁止しています。
昭和17年に同じく校長になった井上成美も禁止している。

この頃の話を見るとかなり結構引いてしまうような話が残ってますが。
後腐れがないので殴られた下級生にもしこりは残らなかったというけれど、そんなこともなかっただろうと思うよ…
実際に殴られるのが嫌で退学した人だっていたみたいだし。


鈴木貫太郎は自分が兵学校生徒であった時を回顧して、
「自分のいた時には生徒同志で私刑的に殴るということはなかった」
と言っています。
鈴木は14期でして、広瀬らの1期上、同じ時期に兵学校生徒でした。
皆無ではなかったのだろうけど、当時の兵学校はそういう雰囲気だったのだと思います。


鈴木貫太郎


兵学校が兵学寮であった頃、お雇い外国人であったダグラス少佐が生徒への鉄拳制裁の必要を主張した際、それを断固として撥ね退けたのが中牟田倉之助兵学頭(校長)になります。
明治6年とか7年の話ですが、当時兵学寮に入っていたのはほぼ武士の子弟です。
武士に手を上げて教育するというのは、確かに馴染まない。
その上名誉に関わる話だった。
そもそもはそうした美風があったはずなんですけどね。

日露戦争後、旅順閉塞隊の生き残りの人々なんかが江田島に帰り、スパルタ教育が強化されて鉄拳制裁が盛んに行われるようになったと平間洋一さんの文章で昔読んだ。
表向きは鉄拳制裁禁止の筈なのだけれど、余りに酷くなければ教官も見て見ぬふりだったみたい。


上記の鈴木の回顧には続きがありまして、


少し酒でも呑んで来たものがあったりすると、生徒全体を立たせておいて、
大叱られに叱られたまま、長いこと立たせられたものである。
酒は一切呑んではならぬことになっていたので、日曜日などには、よく立たされ、
上陸止めを喰らわされることがあったものでした。

(『鈴木貫太郎自伝』)


思い浮かぶ人がいるんだけど…^^;


岡田啓介


明治21年1月、松平春嶽の養嗣子が公爵になった際のお祝いに呼ばれた岡田啓介(15期)。
祝宴が終わる頃に松平春嶽に手招きされてしっかりやれと激励され、手ずから酒を、何度か酌んでくれた。
旧藩のお殿様がしてくれたことなので、さすがに放っておくのも失礼だとぐっと飲み干した。
…のだけれど、お殿様の家から歩かんとならんのですよ。築地まで。


海軍兵学校


お殿様の家=小石川水道町
海軍兵学校=築地

結構遠い。
頑張って歩き、兵学校が見えてくる辺りになるとホッとして、急に覚えが無くなって道端で寝転んでしまった(笑)


ちょうど生徒が帰る時間だったから、みんなにかつぎこまれ、いすの上に寝かされ、ゆさぶったり頭を冷やしたり、
いろいろやられたようだが、さらにわからない。
そのうちに夕食の時間が迫ってきた。

夕食は生徒がみな食卓について立っていると、そこへ当直将校が出てきて号令をかけ、いすにつかせ、
当直将校といっしょに食事をし、終わるとまた号令がかかって立ち上がることになっている。
食事の時間になったからみんなでわたしを食堂へかつぎこんだらしい。

そこで大いびきをかいて寝ているかと思うとときどき大声を出して騒ぐ。
とうとう見つかってしまった。
翌日玄関の前に総員整列をさせ、そこへわたしは呼び出された。
(『岡田啓介回顧録』)


あーあ(笑)
これが鈴貫が生徒全体を立たせておいてってやつなのね~^^;
てゆーかここまでしてくれるなんて親切なクラスメートたちだな~位に思ってたのだけど、それはもしかして連帯責任だったからか~?(笑)
ちなみにこれで岡田は懲罰を食らってます。


続く
需要あるんかこの話… 
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広瀬武夫 秋山真之 財部彪 井出謙治 鈴木貫太郎 岡田啓介

4 Comments

ジゴ・ロウ  

日露戦争物語で、『殿様(春嶽)の盃を断れるか~い』といった場面があったので、まさか…と思ったら、やっぱりな岡田でした。

幕末の殿様と明治の人、まだまだ残っていた主従の名残みたいの、面白いですね。

2014/07/03 (Thu) 00:37 | EDIT | REPLY |   

ヨナデン・ロクタ  

はじめまして。ヨナデン・ロクタです。

yh 様 

blogram の投票ボタンを毎回押していただきありがとうございます。
ブログ『もうDIYでいいよ。』のヨナデン・ロクタと申します。


突然ですが、この7月末でblogram を退会することにいたしました。
これまで拙ブログに幾たびもご訪問いただいたこと、本当に感謝して
おります。

わたしもご訪問するうちに近代の歴史的遺構に少し詳しくなりました。
ほんとうにありがとうございました。


なお、7月中は、これまでと同様、できるだけ貴ブログをご訪問して
ランキングボタンから投票させていただきます。しばらくの間ですが、
お付き合いいただけたら幸いでございます。

yh 様の益々のご活躍と、貴ブログのご発展をお祈りして
おります。


ヨナデン・ロクタ

2014/07/03 (Thu) 09:01 | EDIT | REPLY |   

ヒジハラ  

>ジゴ・ロウさん

そうです、やっぱりの岡田です(笑)
私もこの話を読んだ時は春嶽まだ生きてたんだという意外感が(失礼)。
時代は繋がっているので当たり前と言ったら当たり前なんですけど、春嶽はどうしても幕末の印象の方が強いですね^^;
仰る通り近世と近代の入り混じった感じが面白いですね~(笑)

2014/07/03 (Thu) 21:17 | EDIT | REPLY |   

ヒジハラ  

>ヨナデン・ロクタさん

初めまして。

こちらこそ度重なるご訪問、そしてご丁寧な退会のご連絡を頂きましてありがとうございます。
私もモンドリアン好きだな~と思いながら、貴ブログを読ませて頂いていました。
近代的なデザインではモンドリアンとマッキントッシュが好きです。
自分の部屋をいっそあんな感じですっきりできたらいいんですが…(笑)

またこちらで少しでもお楽しみ頂けたなら歴史好きとしては大変うれしいです。
気が向かれましたらいつでも覗きに来てください^^

2014/07/03 (Thu) 21:27 | EDIT | REPLY |   

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