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01 2014

海軍兵学校15期!

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この話は8回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > FRWL(広瀬武夫コーナー) > 考察・考証 よりどうぞ。
題は 「We are!」 に変えています。

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広瀬武夫が岐阜市(飛騨高山からではない)から上京、攻玉社に入ったのが明治16(1883)年12月のこと。
その1年半後の18年6月に海軍兵学校を受験しています。
『広瀬武夫全集』の年表に出ている通りこの時は落第していまして、同年9月末に行われた追加募集の試験で合格している。

これだけ見ていると、そもそもそんなに成績の良い人ではなかったのかしら、という印象を受けるのですが、そういうわけでもなくてですね。
実は6月に受かったのは原篤慶、中野直枝、福田久槌、広瀬顕一、向井弥一の5人しかいない。

この年の入校者数は57人で、その内52人が追加募集で受かったことになる。
年表によると広瀬は上位及第とあるので、追加募集での合格者の中でも結構良い成績で合格したかと思われます。


海軍兵学校@築地


ちなみにこの追加募集の志願者数253人、身体検査に合格した上学術テストを受けられたのが165人、合格者が52人。
海軍が追加で欲しかった人数を考えると倍率は約3.7倍。

後年の話になりますが、海軍兵学校は超難関学校で東大に入るよりも難しかったといいます。
倍率が30倍とか40倍とか、そんなの。
その頃とは大分違うな。

『海軍兵学校沿革』の合格者名簿が成績順であるなら、追加募集合格者中広瀬は14番目。
これなら確かに上位及第だわ。

18年末の入校者に前年の落第者3人を加えた計60人が、19年末までの4号生徒(最下級生)となります。

当時、1号生徒は12期19人、2号生徒は13期37人、3号生徒は14期56人で、4号生徒15期が57人(入校者数)。
本当は15期の募集人数は72人だったのですが、試験にパスしないということで、15人の不足をみています。
それが翌19年の募集人数に回され、40人の予定が55人になっている。


明治18年2月、軍事部長仁礼景範が海軍卿川村純義に対し、


軍艦は増えているのに海軍士官と機関士は20年後には著しい不足に見舞われる。
新しい軍艦が出来ても乗せる士官が居ない状態に苦しむことにならないよう、
今より海軍兵学校の生徒数を増やしてほしい



という旨の上申を行っています。(『帝国海軍教育史』)
また、在校生徒についても明治21、22年の卒業予定者の卒業を1年繰り上げて欲しいとも言っている。

この上申は概ね了承されたと思われます。
15期以降の人数(卒業者数)、結構増えている。
そして上申の年度とは違いますが、12期13期14期、卒業年が結構詰まってます。
前者から19年12月7日、同年12月10日、翌年7月25日。

13期は何やら気の毒な感じですが、これちょっとよく分からないというか…
多分合ってるのだけど、卒業式したって感じじゃない^^;
もしかして12期と一緒だったのか。


明治20年代前後だとまだまだ草創時期で、制度を含めた様々な点が手探りで、目まぐるしく変わっていくというのがよく解ります。
広瀬が在籍していた当時にはふたつの大きな変化がありました。


続く! 
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