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14 2014

『逍遥選集』より

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今借りてる『逍遥選集』に森鴎外が出てきてさ…
別に探しているわけでもないのに、続く時は本当に続くのだ。なぜだか。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/0224.jpg


森鴎外は坪内逍遥にケンカを売ったことがある。(没理想論争)
ケンカを売られたのは坪内だけではないのだけど、鴎外のやり方はコスい上にしつこい…
なんというか、溝に落ちた犬を更に棒で滅多打ちにするような印象を受けますわー
要するに相手が立ち上がれなくなるまで完膚なきまで叩きのめす感じ。

坪内逍遥も途中で森と論争するのが嫌になってね、最後は「もういーよ」という感じになった。
大御所大人の対応である。

そんな感じなので、『逍遥選集』(12巻/春陽堂/S2)に森鴎外が亡くなった時の文章が載っていたのが意外だった。
鴎外が亡くなった直後の文章でもあり公表されているものでもあるので、悪い事にはあまり触れず、褒め言葉の方が多いだろうとは思うけど…
森鴎外に対する評価は結構高かったみたいだ。
でもやっぱりこういうことが書いてある。


壮年時代には、随分よく怒りもし邪推もし、誤つて間の者のいつた事をも信じたりして、
それがため偏屈な人のやうに思われた事もあつた。
又非常に勝気であつた結果、我が強く、場合によつては非常に傲慢である如く思われたこともあつた。
<略>
其相接する誰れをも、先づ少なくとも知識の上に於て、征服せなければやまないといふ態度が(※土原註:大隈重信と)似てゐる。

(「森鴎外」)


^^;
偏屈で我が強く時により非常に傲慢…
周囲からそう思われたという書き方だけど、逍遥自身も(も、というか、が、か)そう思ってたんだと思う^^;

私が中高生の頃に持っていた”文豪”のイメージって、もっとこう…
人格者的なイメージだったわ~
ただ高校の国語で習った『舞姫』がほぼ自伝というのを見てドン引きはしたのだけど、脚気論争の話を知った時の驚きはそれ以上だった。
というかその頃は森鴎外の本職が軍医ということさえ知らんかったのだよ明智君(誰)

森鴎外だけではないけど、色んな人がいるな、とは思う。そらそうか。
想像するよりも普通の人だったり、驚くほどのクズだったり。
純粋にすごいなと思う人は多いけど。





『逍遥選集』、態々お取り寄せで借りたんだけど見たい情報は全くなかった。
というか、本が違ってたみたい。
そりゃあかんわ…(笑)
ただ思い出話というか、追想記があったのでそれがまだ救い。


坪内逍遥は私のサイトでも既に2度程名前が出てきています。
直接坪内を扱ったのではなく、交流関係の中でかする程度という感じですが。
ひとつは「広瀬武夫と愛知人脈」、もう一つは「などでたゆとう」です。

後者は山田美妙の話ですが、当時文壇の大御所であった坪内にその品行をぼろっかすに非難され、美妙は明治初期の文壇スターダムから転落してしまった。

前者は八代六郎と加藤高明との関係で、この人たち、同郷で同じ学校(尾張藩が作った名古屋洋学校(英語教育中心))に通っていました。
一番の兄貴分は加藤高明で、八代は海軍に進むかどうかを加藤に相談している。
加藤は海軍はマッスルジョブみたいだから止めとけば?と止めたんだけどね、結局は海軍に進んだ。
また同窓にはジャーナリストであった三宅雪嶺もいます。

八代も加藤も三宅もそれぞれ広瀬武夫と関係がある人物で、これはまた面白いな~と思うのよ…
ちなみに前者から先輩、親戚、遠洋航海の同乗者となります。

『逍遥選集』、 折角なのでちょっと引用してみます。
この本を借りることはもう二度とないだろうと思うけど、コピー迄は必要ないっちゅうこともある。笑

書かれたのは内容からみて大正13年か14年です。


其頃の同窓で、今でも逢ふ機会さへあれば、昔ながらの心持で話のできるのは、八代大将だけだらう。
八代君は私より齢は一つ下だが、世間知らずの凡槍(ぼんやり)の私とは違つて、其時分から級中で独り嶄然としてゐた。
率直で磊落で闊達で、文豪趣味もあつたが、武張つた事にも深い同情を寄せて、柔術なぞをも習つてゐたやうだ。

雪嶺君も其時分から知り合ひだが、級が違つてゐたのと、君が寡黙であるのとで、親しく物を言ふやうになつたのは、
むしろ東京大学を出てからであつたやうに思ふ。

県の選抜生の中に加はつて帝国大学の前々身一つ橋の開成学校の試験を受くべく、
明治九年の秋に、東京に出た際には、
<略>
其時、現首相の加藤高明君も、先輩ではあるが、やはり同県出身の開成学校生であつたので、乗込んでおられた。

同君は、やはり齢は私より一つ若いのだが、十七八歳で以て立派に二十五とも見られた程の老成振であつたから、
乗船の際も、其夏期の休暇の毎に名古屋へ帰省し、一同が又東上する折々も、いつも君が宰領役をしてくれられたものだ。
さういふ関係上、同窓ではないのだが、何かと君のお世話になつたのであつた。
<略>


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/0088.jpg


八代君は海軍へ、私は開成学校へ行く先きが違つてゐたので、出京と共に疎遠になつたが、
出京の初めには最も君と親しくした。

君の知友で岐阜県の後藤斎吉といふ人が、<略> 此人にも八代君の紹介で親しくなり、
一しょに写真を撮つたり何かしたが、
其頃の記憶は、其写真の朦朧となつたと同じに、
今は薄れて、容易くは思ひ出せない。


(「学生時代の追憶」) 
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