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05 2014

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山梨遺芳録より (第3回)


山梨勝之進が明治10年生まれの海兵25期ということで、広瀬武夫や秋山真之とは年が10歳、海兵の卒業年は7~8年違う。
広瀬と八代六郎位の違いかと思って調べてみたら、この人達は年は8歳、卒業年は7年違う。
広瀬と八代だったら八代は結構な先輩だなーという印象があるので、山梨にとっての広瀬や秋山らの世代もそんな感じだったのかな。


https://blog-imgs-49.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/yamanashi.jpg
大佐時代のステキ写真 外国の俳優のようである


以前も書いたけれど、広瀬とは日露戦争前に佐世保で朝日艦上で話したことがあるとの山梨本人の言葉。
年表を見ていると、山梨は明治36年9月末から翌年5月初まで扶桑(第3艦隊第7戦隊)の水雷長兼分隊長だった(大尉)。
山梨は違う所で「朝日の広瀬はとにかく有名だった」とも書いているけれど、広瀬本人に接触する機会はあまりなかったのかな?

一方の秋山真之とは海軍大学校の時の教官と生徒だったり、第一次世界大戦の視察旅行に一緒について行って約8ヶ月を共に過ごしたりと、中々印象深い所があったようで、この本には秋山に関する記述が結構ある。


山梨が海大の甲種学生(第5期)になったのは明治39(1906)年1月とあるので、日露戦争が終わって約1年後の話。
明治40年12月18日卒業。
当時の教官には佐藤鉄太郎大佐、鈴木貫太郎大佐、秋山真之少佐がいた。


https://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/satoh.jpg


このときほど、教官の揃ったことはあるまい。
教官には、それぞれ特色があったが、佐藤さんは、戦史のオーソリテーであって、長い間古今東西の海戦を研究して、その成敗、利鈍、因果関係を歴史的、統計的に検討吟味し、海国の国防は、結局海軍によらなければならない所以を説かれた。
非常に根柢の深いものであった。



一応確認しておこうと明治38年と39年の職員録を見ても佐藤がいないんだよ…
職員録の発行時期の問題かと思い『佐藤鉄太郎海軍中将伝』を見たら、佐藤は明治39年1月25日に海軍大学校選科学生になっている(40年4月22日まで在学)とある。 
で、40年4月22日付けで海軍大学校教官になっていました。調べ方が悪かった(笑)
40年の職員録を見たら確かにいてました。
ついでに岡田啓介も教官として名前が載っていた。
そしてこの時期に佐藤が学生にしていた講義が『帝国国防史論』になったんだね~
山梨さんナマで聞いたのか…


秋山さんの戦術は、兵理の上から、理論的に戦術を説かれたもので、理路整然として、胸がすくように筋が通っているうえに、興味深々たるものがあった。
まことにブリリアント、チャーミングであって、学生の血を沸かせたものである。
戦務は、秋山さん独創のもので、戦略、戦術を実施する上において、必要な要務を具体的に教えられ、秋山さん自身が、
「私は戦務で、日露戦争に奉仕した」
といっておられた。



https://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/akiyama.jpg


チャーミングか…^^; いや、確かに意味は「魅力的」だけど、語感がね(笑)


鈴木さんは、秋山さんとはまた別のもち味があった。
口数は少いが、その風格態度がおもおもしく、あつみがあり、筋金が入っていた。
ちょうど、鉄塊を水底に沈めたような感じであった。
「私は講義などは得意ではないが、戦場で、敵とむき合ったときには、自信がある。俺の所作をみてくれ」
というような感じを与えていた。
秋山さんを、ナポレオン型にたとえるなら、鈴木さんは、ウエリントン型とでも言うべきであろう。



http:s//blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/suzuki.jpg


思わず笑ってしまったのがこの鈴木評。

筋金が入っていた。

やっぱりー!(笑) (※鈴貫 筋金入り
『鈴木貫太郎自伝』によると、鈴貫はあれこれ兼任しながら、主に水雷術関係の調査研究をしていたみたい。
大学校では実践から得た水雷戦術を組織し、教育本部では実践中に得た水雷戦に関する全事績を調査して後の参考書を作ったとあります。

秋山だけだよ伝記から何やってたか分からないのは(笑)
ただ『秋山真之』(桜井真清/秋山真之会/1933)には


その講義を聴くべき学生諸君が、これまた同じく日露役の実戦を踏んで来た兵学上一家の見を有する俊秀である。
随つて教室は教官生徒の間に論戦風発、海軍大学創つて以来の盛観を呈した。
当時講義筆記の速記者曰く
「私も海軍大学の速記者を長く勤めてゐますが、今の時代ほど海軍大学の教室が賑わつた事は有りません」



こうした記述があって、山梨遺芳録にも


学生は、みな一通りの実戦経歴者であったので、議論は、真剣、活溌に行われて、つねに白熱化していた。
この三教官(提督)の教育が、我が海軍の兵術発展の一つの型となったのである。



こうした記述がある。
みな一通りの実戦経歴者」って、どういう人たちなのかと海大の卒業者名簿を見てみると、山梨の期は全員で16名。
中には松村菊勇(少佐)、大角岑生(大尉)、山本英輔(大尉)、清河純一(大尉)がいる。
 
松村は怪我をしなければ旅順口閉塞に参加していた人物です。
成仁録のメンバーで、国内にいる時から閉塞作戦実行の準備をしていたひとり。
負傷後送されたため、広瀬武夫がそのピンチヒッターになった。
大角も3回目の旅順口閉塞に参加。ぶっちゃけると大角人事と言う悪い印象しか無い。
大角と同期の山本は日露戦争時第2艦隊の参謀です。山本権兵衛の甥にあたる人物。
清河は前回も名前が出てきましたが、日露戦争時連合艦隊参謀。秋山と職場一緒!
そして桜井真清(少佐)の名前もあるのだけれど、私は伝記関係でしかこの方の名前を知らんのだ…

確かにあんな経歴の人たちが先生で、こんな経歴の人たちが学生だったら議論白熱どころじゃなかったんじゃない?

今の時代ほど海軍大学の教室が賑わつた事は有りません

そらなかったろうよ(笑)
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2 Comments

ジゴロウ  

先ほど、初期の海軍学校で、薩摩の学生は喧嘩の強さでクラスの序列を決めていた、という記述をみたばかりなせいか、殺伐な場面しか浮かんできません…

佐藤=庄内、鈴木=関宿、秋山=松山…この佐幕ラインナップに、目が言ってしまいます…orz

2014/01/06 (Mon) 03:05 | EDIT | REPLY |   

ヒジハラ  

>ジゴロウさん

あーそれ大分初期の頃ですね。山本権兵衛とか上村彦之丞の頃です。
上の3人の世代になるとそういった話は聞きませんが、出身藩が同じ者としか話をしないとか、そういう風潮はあったみたいです。
広瀬武夫が何とかしようとしてましたが、結局何ともならなかったんじゃないかなあ…

2014/01/06 (Mon) 05:44 | EDIT | REPLY |   

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