Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

パラべラム~堀悌吉(16)

*****

この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

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前回が9月20日。
このページの最終改定が9月30日。

色々間に挟まったからですが、なんというかすいません。笑
我ながら(笑)としか書けない。だって初回が8月11日だよ。笑
何時まで続くのって感じですが、目標通り今年中には終わります。
あと4回で終わるんです。本当です。笑



堀悌吉の話から昭和5(1930)年のロンドン海軍軍縮会議を廻る騒動を見ている最中です。
この軍縮条約を受諾したい派(海軍省系軍人)、破棄したい派(軍令部系軍人+東郷平八郎に近い人間)で海軍がふたつに割れてしまった。

この時の海軍の様相が大正10(1921)年のワシントン海軍軍縮会議の時とは全く違っているという話、
ワシントン海軍軍縮会議の時の加藤友三郎海相がどんな大臣であったか、
ロンドン海軍軍縮会議の時の財部彪海相がどんな大臣であったか、
当時の背景や、軍縮で名の知れた将官でさえリストラの対象になったという話

…をパラべラム(14)(15)で書きました。

今回はその続きです。


****


パラべラム(15)は、大正10(1921)年のワシントン海軍軍縮条約(以下ワ条約)の後、海軍士官もリストラにあっていたという話でした。

大体条約締結後の大正11~12年頃のこと。
ではこれでリストラは終わったのか言われたら、そうではなくてですね…
話題にはならなくても軍縮の処理はそれ以降もずっと続いている。
作る筈だった軍艦が作れなくなったので民間の造船会社に補償金やら賠償金やらを出したりしもしていますし、財政削減の折り柄、人件費が削られもしているので大正13年末には再度の人員整理が行われています。


https://blog-imgs-59-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/201312231245042af.jpg


大正10(1921)年時、原敬内閣の海相であった加藤友三郎は大正11(1922)年に総理大臣に就任します。
それがワシントン会議から帰って数か月後の事。
帰国した加藤が斎藤実に、

「アメリカでは死ぬかと思った」

と言うほど体調が優れなかったことは以前に触れました。
それがメディアをして蝋燭の燃え残り(残燭内閣)と形容せしめた程の状態で、総理兼海相を勤めた加藤は大正12年8月下旬、現職のままで亡くなります。

その後成立した第2次山本権兵衛内閣から昭和の浜口雄幸内閣に至る迄、間に村上格一、岡田啓介を挟みながら、3度海相を勤めたのが財部彪になります。


財部の時代に更に人件費が削減となったのは、大正12(1923)年9月1日(第2次山本内閣の成立直後)の関東大震災も大きな要因であったでしょう。
財部はそうした軍縮・緊縮財政の時代、経済的に余裕がない時代の海相です。
海軍と政府の間に挟まれる、中々舵取りが難しい時代の海軍のトップでした。


ワ条約で整理された人員は『加藤友三郎』(新井達夫/時事通信社/1958)によると、

準士官以上 … 約1700人
下士官 … 約5800人
(海軍関係の職工 … 約14000人)

とあります。
加藤が人員淘汰は上級者からと考えていたことは既に触れましたが、職業軍人が随分淘汰されている。
そして大正13(1924)年末、財部彪の時代もその方針を引き継いだようです。


財部彪


とはいえ、財部の時には古参将官の多くが既に予備役後備役退役となっている。
ワ条約の際には、海兵26期なんて大佐クラスをわざわざ少将にして予備役に入れているんですね。
この時の整理基準が主として海軍兵学校のハンモックナンバーだったようで、下位者から順番に予備役入りになった様子。
(20数年前の学業成績でこんな重要なことが決まるかと思うと相当キツい)。

26期HN上位者は残っていたものの、それが13年末に人員淘汰の対象になった。
その中に樺山可也がいます。
樺山は以前大正6年海軍小演習の件で名前を出した人物で、同期に清河純一、小林躋造、野村吉三郎、水野広徳がいます。
出身が鹿児島で姓が樺山という辺り、樺山資紀の親族か何かと思いますが事典レベルでは詳しいことは分からなかった。


樺山は海兵の成績は59人中の19位(これが上位とは思わんけど^^;)。
海軍大学校の甲種過程を優等で卒業していた人物で、周囲もかなり驚いたようです。
以前触れましたが、甲種は海軍の最高幹部養成コースになります。
つまり将来的に海軍の中枢に入ることがほぼ見えていた人だっちゅうことです。

その樺山が連合艦隊参謀長から呉鎮守府参謀長に転任した直後に転補内命、事実上待命の内命が出た。
びっくりするよね。
GF参謀長って、そういうレベルの職務にいた人にいきなりって。
当時呉鎮長官であった竹下勇も相当困惑したようです。

「ちょっと待て」

と思った人が多かったようで、野間口兼雄横鎮長官、鈴木貫太郎軍令部長らがそうはさせじと頑張っていたみたい。
また軍事参議官や各司令長官からも、財部自身が驚くほどの反発が出たようです。

そこで再度樺山を転補させたのだけれど、今度は薩派優遇だとの声が内部から上がることになった。
もーどーしよーもないわー

結局同期の清河純一に予備役入りの伝言を伝えさせることになった。(樺山は翌14年末に予備役入り)
判断が二転三転してますな。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014822_3.jpg


こういう時にね…支援者がいないとかなりきつい訳です。

しかも上記した民間造船会社への補償も、対象に川崎造船が入っているわけです。
川崎造船の社長はね、松方幸次郎。
この人は松方正義の息子なんです。
思い出して頂きたいのは財部彪の妻の妹の夫が松方正義の子、乙彦である事。
この乙彦の兄が幸次郎になる。
薩摩閥、その上親族ということで、正当な補償であっても薩摩贔屓だ優遇だと波風が立ってしまう。

部内で評判が悪いというのは、こういう時、非常に難しい。
職務という点においては、出身地もさることながら婚姻関係が非常なネックになっていたことが想像されます。

そして財部はこの時点で海相になって1年と少しという辺り。
財部は海軍省勤務の経験がほぼ無い状態で海相に就任したと前回書きましたが、樺山可也の処遇が二転三転したというのは、この辺りにも理由があったのじゃないかと思います。
部内の空気を読み切れてなかったんじゃないかなあ…


人員整理が視野に入るというのは、当時の時節柄仕方無かったと思います。
ただ財部のやり方はこなれてない。
この”こなれてなさ”がそのままロンドン海軍軍縮会議の紛糾にも出ている気がします。


続く


(財部好きな私涙目orz)
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親族の輪

山本五十六と堀悌吉の話(どちらかと言うと堀の話)をもう少し書きたいのですが、その前に違う話。
話と言うほどのネタではないのだけれど。

系図繋がりと言うことで。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_08100017.jpg


調べていたらこういう本が引っかかったので『海軍王国の誕生』と一緒に借りた。
結構面白かった。
系図しか見てないけどな!(笑)


幾らか「え?」と思うような人の名前も見たわけです…


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_08100018.jpg


松方正義の家を中心とした閨閥図で見つけた谷村愛之助の名前。

谷村愛之助と言われても、多分殆どの方が誰それという位の認識しかないと思う。
薩摩生まれの海軍士官。15期である(そこか)
ハンモックナンバーは15期80人中の80番!中々ないよ!(笑)

明治24・5年の遠洋航海(加藤寛治・安保清種ら18期)の時に比叡に分隊士として乗組んでいます。
はい。
広瀬武夫も同艦に分隊士として乗組んでいまして、まさしく同期の同僚。
この遠洋航海に関し広瀬は『航南私記』という記録を残していますが、その中に名前が出てきます。

メルボルンに着いた際、広瀬は谷村と千坂智次郎ら数人と上陸して室内射的銃を買ったり、氷菓子を食べたりしている。
氷菓子はアイスクリームのことかと思われます。
千坂智次郎は14期、山形米沢の人。
米沢藩家老の次男で、先日「名士」で名前が出てきましたが、上泉徳弥がこの方の叔父宅に下宿していました。

谷村は明治33年に亡くなっていまして、理由はよく分からないのですが公務死だと思われます。
海軍葬が行われている。

谷村愛之助って、幕末、薩摩に同姓同名の方いますよね。(明治初年に死去)
お殿様の小姓だったり、側近だったり。何か関係あるのかしら…
というか私が勝手に海軍さんだと思いこんでるだけで、同姓同名の別人だったら笑う。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_08100018.jpg


松方乙彦は松方正義の何番目か(正確な所が分からんw)の男児で、山本権兵衛の娘を妻にしています。
ということで義兄弟には財部彪(15期)、上村従義(30期、上村彦之丞養嗣子、西郷従道実子)、山路一善(17期)がいます。
本当は留学先のアメリカでフランクリン・ルーズベルトの従姉妹と結婚の約束をしていたのだけれど、周りに大反対され叶いませんでした。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_08100019.jpg


そしてもうひとり。
写し方がへたくそでごめーん。
左端に清河純一がいるよ!


https://blog-imgs-49-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/rengoukantai.jpg


清河の娘ちゃんが岩崎弥太郎の孫に嫁いでる。

ということは、清河、広瀬武夫とは遠い親戚になるのねー
右端に加藤高明(岩崎弥太郎の長女が妻)が見えていますが、広瀬武夫の兄勝比古の妻が加藤の従妹になります。

広瀬の戦死後、日本で海軍葬が行われた際、勅使が差遣わされています。
それを総代として受けたのが加藤高明。
加藤は当時既に外務大臣経験者(伊藤博文内閣)でして、親族代表としてはこれ以上の人はいなかったでしょう。
ついでに岩崎の娘のひとりは幣原喜重郎に嫁いでいまして、加藤と幣原は義兄弟になる。

広瀬武夫の兄の娘婿が広瀬末人で、海兵39期。
同期の大親友に山縣正郷がいますが、末人の弟の妻が山縣の姉妹。
更に広瀬末人の長兄に阿南惟幾(最後の陸軍大臣)の姉が後妻として嫁いでおり、近い付き合いをしていたそうです。
阿南は豊後竹田出身、広瀬勝比古・武夫と同郷なんですな。
そういう関係もあってか、竹田の広瀬神社に顕彰碑があります。


山縣正郷、大西瀧治郎(40期。広瀬武夫に憧れ海軍入り)と仲が良かったそうで、その流れから山本五十六、堀悌吉と雀卓を囲んだり、ポーカーやブリッジをして遊ぶ仲間だったそうです。
ゲームに熱中しすぎてかどうか、山縣が膀胱炎に罹った時、山本が見舞いに来て
「自分が膀胱炎に罹った時堀がしてくれたことと同じことをしてやる」
と言って同じようにしてくれたという文書(史料)が残っていると防研の調査官の人が教えてくれた。笑



あと系図の写真撮り忘れた。

随分前にあげたことのある写真です。
児玉源太郎一族の集合写真…


https://blog-imgs-59-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140117_5.jpg


に親族みたいな顔で寺内正毅が写ってるって書いたんですが、児玉の息子(秀雄)と寺内の娘が結婚してた。
みたいなじゃなくて、親族です…
超失礼。

見ててびっくりしたんだけど、親戚の輪に木戸孝允、山本英輔(権兵衛甥)、阿部信行、広田弘毅、原田熊雄、井上準之助、渋沢栄一がいる。
その上小松輝久(37期。元皇族、臣籍降下)までいる。
阿部信行がいるってことは井上成美(37期。阿倍の義弟)もその輪に入るってことだぜ…!

ビビるわー 
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Stars☆

山梨遺芳録より (第3回)


山梨勝之進が明治10年生まれの海兵25期ということで、広瀬武夫や秋山真之とは年が10歳、海兵の卒業年は7~8年違う。
広瀬と八代六郎位の違いかと思って調べてみたら、この人達は年は8歳、卒業年は7年違う。
広瀬と八代だったら八代は結構な先輩だなーという印象があるので、山梨にとっての広瀬や秋山らの世代もそんな感じだったのかな。


https://blog-imgs-49.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/yamanashi.jpg
大佐時代のステキ写真 外国の俳優のようである


以前も書いたけれど、広瀬とは日露戦争前に佐世保で朝日艦上で話したことがあるとの山梨本人の言葉。
年表を見ていると、山梨は明治36年9月末から翌年5月初まで扶桑(第3艦隊第7戦隊)の水雷長兼分隊長だった(大尉)。
山梨は違う所で「朝日の広瀬はとにかく有名だった」とも書いているけれど、広瀬本人に接触する機会はあまりなかったのかな?

一方の秋山真之とは海軍大学校の時の教官と生徒だったり、第一次世界大戦の視察旅行に一緒について行って約8ヶ月を共に過ごしたりと、中々印象深い所があったようで、この本には秋山に関する記述が結構ある。


山梨が海大の甲種学生(第5期)になったのは明治39(1906)年1月とあるので、日露戦争が終わって約1年後の話。
明治40年12月18日卒業。
当時の教官には佐藤鉄太郎大佐、鈴木貫太郎大佐、秋山真之少佐がいた。


https://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/satoh.jpg


このときほど、教官の揃ったことはあるまい。
教官には、それぞれ特色があったが、佐藤さんは、戦史のオーソリテーであって、長い間古今東西の海戦を研究して、その成敗、利鈍、因果関係を歴史的、統計的に検討吟味し、海国の国防は、結局海軍によらなければならない所以を説かれた。
非常に根柢の深いものであった。



一応確認しておこうと明治38年と39年の職員録を見ても佐藤がいないんだよ…
職員録の発行時期の問題かと思い『佐藤鉄太郎海軍中将伝』を見たら、佐藤は明治39年1月25日に海軍大学校選科学生になっている(40年4月22日まで在学)とある。 
で、40年4月22日付けで海軍大学校教官になっていました。調べ方が悪かった(笑)
40年の職員録を見たら確かにいてました。
ついでに岡田啓介も教官として名前が載っていた。
そしてこの時期に佐藤が学生にしていた講義が『帝国国防史論』になったんだね~
山梨さんナマで聞いたのか…


秋山さんの戦術は、兵理の上から、理論的に戦術を説かれたもので、理路整然として、胸がすくように筋が通っているうえに、興味深々たるものがあった。
まことにブリリアント、チャーミングであって、学生の血を沸かせたものである。
戦務は、秋山さん独創のもので、戦略、戦術を実施する上において、必要な要務を具体的に教えられ、秋山さん自身が、
「私は戦務で、日露戦争に奉仕した」
といっておられた。



https://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/akiyama.jpg


チャーミングか…^^; いや、確かに意味は「魅力的」だけど、語感がね(笑)


鈴木さんは、秋山さんとはまた別のもち味があった。
口数は少いが、その風格態度がおもおもしく、あつみがあり、筋金が入っていた。
ちょうど、鉄塊を水底に沈めたような感じであった。
「私は講義などは得意ではないが、戦場で、敵とむき合ったときには、自信がある。俺の所作をみてくれ」
というような感じを与えていた。
秋山さんを、ナポレオン型にたとえるなら、鈴木さんは、ウエリントン型とでも言うべきであろう。



http:s//blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/suzuki.jpg


思わず笑ってしまったのがこの鈴木評。

筋金が入っていた。

やっぱりー!(笑) (※鈴貫 筋金入り
『鈴木貫太郎自伝』によると、鈴貫はあれこれ兼任しながら、主に水雷術関係の調査研究をしていたみたい。
大学校では実践から得た水雷戦術を組織し、教育本部では実践中に得た水雷戦に関する全事績を調査して後の参考書を作ったとあります。

秋山だけだよ伝記から何やってたか分からないのは(笑)
ただ『秋山真之』(桜井真清/秋山真之会/1933)には


その講義を聴くべき学生諸君が、これまた同じく日露役の実戦を踏んで来た兵学上一家の見を有する俊秀である。
随つて教室は教官生徒の間に論戦風発、海軍大学創つて以来の盛観を呈した。
当時講義筆記の速記者曰く
「私も海軍大学の速記者を長く勤めてゐますが、今の時代ほど海軍大学の教室が賑わつた事は有りません」



こうした記述があって、山梨遺芳録にも


学生は、みな一通りの実戦経歴者であったので、議論は、真剣、活溌に行われて、つねに白熱化していた。
この三教官(提督)の教育が、我が海軍の兵術発展の一つの型となったのである。



こうした記述がある。
みな一通りの実戦経歴者」って、どういう人たちなのかと海大の卒業者名簿を見てみると、山梨の期は全員で16名。
中には松村菊勇(少佐)、大角岑生(大尉)、山本英輔(大尉)、清河純一(大尉)がいる。
 
松村は怪我をしなければ旅順口閉塞に参加していた人物です。
成仁録のメンバーで、国内にいる時から閉塞作戦実行の準備をしていたひとり。
負傷後送されたため、広瀬武夫がそのピンチヒッターになった。
大角も3回目の旅順口閉塞に参加。ぶっちゃけると大角人事と言う悪い印象しか無い。
大角と同期の山本は日露戦争時第2艦隊の参謀です。山本権兵衛の甥にあたる人物。
清河は前回も名前が出てきましたが、日露戦争時連合艦隊参謀。秋山と職場一緒!
そして桜井真清(少佐)の名前もあるのだけれど、私は伝記関係でしかこの方の名前を知らんのだ…

確かにあんな経歴の人たちが先生で、こんな経歴の人たちが学生だったら議論白熱どころじゃなかったんじゃない?

今の時代ほど海軍大学の教室が賑わつた事は有りません

そらなかったろうよ(笑)
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戦艦三笠のストライキ(続)

山梨遺芳録より (第2回)


明治三十四年の秋に、副長西山(実親)中佐のひきいる後発隊(<略>)が信濃丸で到着した。<略>
当時三笠は、未完成ながらどうにか居住ができるようになっていた。
ハンモックも釣れるし、賄所もできた。
それに艦の構造にも馴れさせるため、信濃丸が着くと、早速兵員は、艦内に居住することにした。
准士官以上は、まだ艦内居住ができないので、当直は艦にとまるが、そのほか(二十名)は外泊(下宿)することになった。
これは、一つには、士官に英国の社会生活を味わせるという、艦長の趣旨もあったのであろう。

ところが、ここに兵隊の不平が爆発した。
士官は、背広で毎日外出して、いいものをたべ、立派な下宿にとまり、いいことをしている。
われわれは、ゴミだらけの艦内で、ガチャガチャとやまかしいハンマーの音を耳にしながら、不自由きわまる生活をしている。
われわれを牛馬と思っているのかというのである。

兵隊にも輪番に外出を許してあったが、ことばが通じないで面白くないのであろう。
外泊と艦内生活では、天地の差である。
こうなると、兵隊の感情というものは、きわめて尖鋭化するものである。
副長の指導にも不十分の点があったようであり、もっと気のきいた臨機の処置をとればよかったのだが、すでに兵隊がいうことをきかなくなっていた。
暴行非礼をしたわけではないが、兵隊は、中甲板に立てこもって、ハッチをしめて、一切でてこない。<略>

一種のサイレント・ストライキであった。こんな状態が三週間ぐらい続いた。
向井弥一などという精神家の分隊長もいて、さかんに説得したので、ようやくおさまり、艦長は、主謀者を行政処分にして、事件は一段落した。
ところが、三笠が内地に帰ると、山本海軍大臣が承知しない。
将来のために、厳重に処分する要があるとして、本件を軍法会議に付し、司法処分にしたのである。
 

向井弥一がいる!
向井は海兵15期、広瀬武夫の親友のひとりです。
ちなみに艦長は早崎源吾(3)、副長は西山実親(8)。野村吉三郎(26)や清河純一(26)もいた。
山本海軍大臣は山本権兵衛です。
 
https://blog-imgs-49.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/rengoukantai.jpg 清河結構イケメン


山梨勝之進の話からすると、本当にこれは単なるストライキっぽいのだけど…
まあ不正があったとしても山梨が上司や同僚のそういった行為を口にする事はなかっただろうけど、前回書いたような
この反乱は、監督将校や下級将校の収賄事件に発するもの」(『戦艦三笠の反乱』)
というのは、やっぱりちょっと違うんじゃないかなあ。
ちょっと悪く見過ぎてる気がする。
ちなみに「ストライキは3週間程続いた」とあるけれど、『戦艦三笠の反乱』にある同事件の判決文を見ると4・5日で解決してます。

山梨の話だと、司法処分にした、というだけでこの事件についてはこれ以上の続きはありません。
ただ、この軍法会議の史料ってあるのかしら。
ないだろうな(取り扱いが微妙なので)、と思ってアジ歴を見てみました。 
軍法会議そのものはやっぱり見つからなかったのですが(探し方が悪いのか)、関係史料は出て来た。

『35年9月30日 呉鎮機密第322号の2を以て軍艦三笠乗組兵員の非行事件の件』(C10127693400)


あー…サラッとしか見なかったけど、これ、結構な事件扱いになっているっぽい…
そらそうだよね。軍隊において上の命令は絶対です。
下士官や水兵に不満がある度にこんな事をされたら立ち行かなくなる。
上の史料の中では、将来に悪弊を残す可能性がある、という事が非常に懸念されていました。
まさに、


ところが、三笠が内地に帰ると、山本海軍大臣が承知しない。
将来のために、厳重に処分する要があるとして、本件を軍法会議に付し、司法処分にしたのである。



これ。
籠城に参加した下士官らは軍法会議にかけられ処分されています。


それと、『山梨遺芳録』でも『戦艦三笠の反乱』でも触れられていませんが、当然ながら監督者の責任問題に発展しています。
何が問題になったかというと多分、「艦長は、主謀者を行政処分にして、事件は一段落した」、ここの部分。
この「行政処分」というのが一体どういうものか分からないけれど、アジ歴史料を見ていると、艦長らはこの事件の関係者を罰せず、どうやら実質的には不問に付したらしい。
許しちゃったか。

確かにこれはまずいよ。
とは言え事件が起ったのがイギリスで、下士官水兵ほぼ全員がストライキに参加したという状態。
史料に含まれる早崎艦長の報告書によると、士官らと意見を出し合って、三笠を本国へ恙無く回航するという本来のミッションを最優先にした結果がこうだった。
読んでいると、これは海軍士官、しかも艦長としては屈辱的な判断だっただろうなー…と思う。

それを個人としては理解できても、組織としてはやっぱりまずい訳で。
海軍省や呉鎮守府(当時三笠の艦籍は呉)といったトップ、関係局とのやり取りの中で、早崎艦長らの下士官らに対する「処分ハ失当ニシテ責ヲ免レサル」、そう書かれている。
彼らの上官である艦長、副長、分隊士の当時の対処は適切だったか、責任を取らせる必要がある、とそういう事が書かれている。


で、その後どうなったかというと、史料がこれだけであとは分からない(笑)
ただ上が考えていた責任を取らせるべき人って、恐らく報告書(顛末書?)を出していた早崎艦長、西山副長、向井分隊長だったと思うんです。
西山と向井は、どういう処分が下されたのかは分からない。
随分ミソは付いただろうとは想像しますが。

艦長だった早崎にもどういう処分が出たのかは分からないのですが、経歴見てたら、うん。
責任取らされてますね、これ。
明治35年11月末に下士官らの軍法会議が終わり、翌年の1月、つまり事件が完全に終わった段階で待命、6月に名誉昇進で少将になって予備役編入。
要するにクビだ(※正確には引退)。

折角の新進の新造艦、その艦長だなんてめちゃくちゃ名誉な役割だっただろうに、なんと言いますか。
気の毒だ…


ちなみに前回書いたこの事件の時の当直中尉、アジ歴史料によると清河純一だった。
向井と清河が随分頑張って説得していたみたい。

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戦艦三笠のストライキ

『山梨勝之進先生遺芳録』を借りた。
加藤友三郎関係でよく見る本なので気にはなっていたのだけれど、今までノータッチでした。


https://blog-imgs-49.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/DVC0008.jpg (多分三笠で撮った写真)

 
山梨勝之進は明治10(1877)年仙台生まれの海兵25期。
広瀬武夫は年は10、卒業年は8年違う。
同期に四竃孝輔がいます。
見ていると宮治民三郎もいて、どこかで聞いた事がある名前だと思いきや江藤淳の祖父だった。

艦隊勤務より陸上勤務が多い印象があるなあ…
軍政方面の提督で、明治の終わりから大正初期に長いこと大臣秘書官や海軍省副官を務めています。
山本権兵衛や斎藤実の秘書官だったり副官だったり、財部彪が大臣だった時に次官だったり、秋山真之が第一次世界大戦の視察のために欧米に旅立った時に一緒について行ったり。
個人的に印象が強いのはワシントン海軍軍縮会議、ロンドン海軍軍縮会議時の話で、この人は加藤友三郎の直系になる。
特に後者の軍縮では、この方(と堀悌吉)がいたから国内の海軍の不満を何とか押さえて条約締結が出来たと思われます。

まあ、そんな感じの(……)山梨の伝記が大変面白かったので、これを暫くネタにします。笑
こらそこー手抜きって言わない!本当に面白い本なんだぞ! 笑。


***


知らなかったのですが、山梨、三笠の回航委員のひとりだったんですね。
まだ少尉1年目の頃、明治33~35年まで滞英していて、という事はこの方広瀬武夫に会ってるんじゃなかろうかと思ったのだけれど、両者の滞英時期には数ヶ月の開きがある。
会っていたらきっと何らかの話を残していてくれたのではと思うだけに残念。
でも日露戦争前、佐世保沖、朝日艦上で話したことがあると言っておられますな(多分明治36年じゃないかと思う)。


実は三笠がイギリスで建造されている最中に、派遣された下士官や水兵が現地での待遇に不満を持ち、ストライキを起こしている。
三笠の話が出ても、これはあまり話題になる事がないように思います。

概要は以下。

回航の為に士官らと渡英した下士官らはすぐに三笠に乗るように命令されます。
しかしながら三笠はまだ完成していない。
建造真っ最中の戦艦で起居する羽目になった訳で、寝所の部分が雨が降れば雨漏りするし、風は吹き込んでくるしといった状態。
満足に生活できるまでにはなっていなかった。
その上現金給与されていたのが、予想外に早く現品給与に切り替わってしまう。 
現金給与なら切り詰め次第で懐が潤うのに…

しかもこうした一方で彼らの上官、士官たちは三笠の外で宿泊。その上結構な特別手当がつく。
言葉の上での不自由さもそんなには問題にならないので、結構快適な(というか楽しい)英国生活だったんじゃないかなあ…
下士官らにして見れば、あれこれの理由からいくらなんでもあんまりじゃないか、どうにかしてくれという感じだったと思われます。

そこで副長に改善を要求するも受け入れられない。
それで下士官水兵190名程が共謀して三笠の下甲板に立て篭もり、昇降口(出入り口)を塞いで外部から開けられないようにしてしまった。
閉じこもった彼らに気付いた当直の中尉が説得するも聞く耳もたず、更にもうひとりの中尉、艦長、副長、分隊長に報告。
再度中尉が説得するも同様で、更に副長と分隊長が説得しても(以下ry
中尉ふたりが熱心に説得を続けて、結果籠城している下士官たちも納得して解散した。
数日で終わった出来事。


https://blog-imgs-49.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2013_12090162.jpg 三笠


この話、『戦艦三笠の反乱』(山木茂/新人物往来社/1977)という古い本に載っているのですが、著者の立ち位置が左側なので実際の所どうなのかしらと。
それに三笠の破壊活動に及んだとか上官を殺したとか暴力を振るったとかそうした話ではないのに、なんでこの話が”反乱”なんだ。
待遇改善のためのストライキ以外の何物でもないと思うんだが。
題に悪意を感じるのは私だけか…
 
著者はシーメンス事件時の新聞に、当時イギリス人の間で三笠の監督将校に収賄の噂が盛んだった、宿泊に関して経理の不正をしている、という話が載っていた事から、ストライキの原因は待遇改善と将校の不正糾弾のための「反軍事件」だと書いている。


この反乱は、監督将校や下級将校の収賄事件に発するものである。
<略>
ただ、この反乱の取調べにあたった軍法会議で、兵曹、水兵らは将校たちがアームスロング会社の事務所に宿泊しながら、あたかもホテルに泊ったかのように装って不当な特別手当を受け取っていたのを明らかにした。
この事は立派に詐欺罪が成立する筈であるが、判決文ではこれに一言もふれないのみならず、警告すらも発していないのは、まさに軍法会議が内包している階級性を表している。



文中、アームストロングとあるのはヴィッカースの間違いです。
書き方が恣意的というか、ま、的が外れているような気がするんだよ…(後者ね) わざと外してんのか。
とまれ、この本にはこの事件の判決文が載っている。それは良い点だと思う。

ただ著者の言う”詐欺”が軍法会議で暴露されたのかどうかは、史料の提示がなく、14年程後の新聞の引用しか無いので、分からない。
清く正しい海軍さんばっかりじゃないだろうし、そういう事もあったんじゃないかなーとは思うけど。
一応史料的にはこうした事件が実際にあったという裏付けがあるっちゃあるんだけど、でもなんだか「う~ん?」な感じだったんですよ。
ひとえに著者の立ち位置からですが。
……わ、分かります?このもやもやとした感じがどういう感じか^^;


で、今回山梨さんの伝記を借りたらその話が載っていた!
でね、ああ、と思ったのだけれど、やっぱり当事者の話を読むと随分受ける印象が違うわー

続く!
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