Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

昭和天皇と周囲の人々(主に明治)(6)

昭和天皇の周辺、続き。

★★昭和53年12月4日の記者会見

記者:足立タカさんは鈴木貫太郎首相に嫁がれたわけですが、二・二六事件の時はいろいろ陛下もご心痛だったと思うんですが。

天皇:そのことは、かえって記者あたりの方がよく知っていると思いますが(大笑い)、
鈴木タカが、首相が非常に悲しむべき状態になった時に屹然として、もうこれ以上殺さずにという希望を述べたということが話に載っているように思います。


『陛下、お尋ね申し上げます』にある戦前の臣下の話で、一番ボリュームがあるのが鈴木貫太郎。
2・26事件と終戦関係の話は、記者でなくても興味はあるよな…


昭和11年2月26日未明に起きた事件で、内大臣斎藤実、大蔵大臣高橋是清、陸軍教育総監渡辺錠太郎が即死。
首相岡田啓介は無事でしたが、人違いで義弟松尾伝蔵が殺害されています。


斎藤実、岡田啓介、高橋是清


当時侍従長であった鈴木貫太郎も襲撃され、銃で撃たれて本来なら即死であったのでしょうが、妻たかの行動により奇跡的に一命を取り留めております。

老臣らを襲撃した青年将校の言い分は「君側の奸を取り除く」というものでしたが、昭和天皇から見た彼等は紛れもなく「股肱の臣」(最も信頼をおく臣下)。
それを虐殺した。
国家から与えられた武器と兵まで使って丸腰の老人を。

昭和天皇は激怒します。
決起将校たちに対して同情的であった川島義之陸相に対しても、また侍従武官長であった本庄繁に対しても非常に激怒しております。

本庄の娘婿は決起将校のひとり山口一太郎(秋山真之と同期の山口鋭の甥)で、本庄は襲撃の事を予め知っていた人物でもある。

本庄は昭和天皇に、
「軍隊を勝手に動かしたのは許されるものではないが、天皇と国を思う精神からでたものであるので、咎めないでほしい」
と、立場を利用して何度も進言するのですが、昭和天皇は決して肯んぜず、こう言い放ちます(本庄日記)。


「朕が股肱の老臣を殺戮す、
此の如き凶暴の将校等、其精神に於ても何の恕すべきものありや」

「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて朕が首を締むるに等しき行為なり」


ブチギレである。


鈴木貫太郎、たか


鈴木貫太郎はこの事件時、股と左胸、頭と肩に銃弾を撃ち込まれています。
指揮官安藤輝三大尉が止めを刺そうとした時に、妻たかが止めてくれと懇願した。
鈴木は直径1mほどの血の海の中に倒れている状態で、ここで息の根を止めなくても助からないだろうと判断されたため。

また、たかの緊急処置が良く、さらに医者がすぐに駆け付けた為、鈴木は何とか一命を取り留めました。


***


★★昭和55年9月2日の記者会見

記者の、元侍従長鈴木貫太郎と大変長いお付き合いがあったと聞いているが、何か思い出があれば聞かせて下さい、との質問に対して。

天皇:
鈴木とは苦楽を共にしました。
なかんずくニ・二六事件は最も不幸なことだと思っています。
その時の印象は、今日もなお強く残っています。
それから、鈴木が総理になったということは、戦いを終わらせることに力があったと思います。


記者の、2・26事件の印象は特に強烈だったと思うが、特にどういう点がと問われて。


天皇:
そのニ・二六事件の時のことは、皆も知っているように、鈴木が反軍のために襲撃された、
あのことが一番印象が強くあることですが、このことはかえって新聞記者が知っていることと思います(笑い)

記者:
いや、いつもそれでまいっちゃうんです(大笑い)。
陛下、あの鈴木侍従長が襲われたということを聞かれたのは、どこで聞かれたんですか。

天皇:それは皇居で聞きました。

<略>

記者:
それから当時の侍従武官長本庄繁大将が『本庄日記』の中で、陛下が大変お怒りになって直ちに鎮圧するようにとおっしゃったとか記しているわけですが、事実でございましょうか。(※土原註:上記本庄日記の引用部分のこと)

天皇:それは大体、事実だと思います。

記者:
鈴木貫太郎総理の自伝の序文の中で、終戦の8月15日の夜、鈴木総理が自宅へ戻ると、陛下が非常によくやってくれたと二回いわれたと、それで総理が感涙にむせんだということを息子さんが書いていらっしゃいます。
やはりそういうことはあったんでございますか。

天皇:
あるいは、そういうことをいったかもしれませんけれども、今覚えていないですけど。

記者:
終戦における鈴木総理の力というか、鈴木総理をおいてあの決断で終戦まで持っていくことはむずかしかったのですか。

天皇:
ええ、そうです。
なかなか閣議でも、御前会議の席上でも、伝わっているように決定が鈴木総理ではできなかったので、鈴木総理が私の意見を求めたからいったわけです。

しかし、さっきもいったように、鈴木のような人が総理になったということは、そういう御前会議のような状況ではありますけれども、そういうことになるのも、鈴木総理だったからできたのかもしれません。

記者:
陛下、御前会議で意見が三対三にわかれてしまって、総理としては裁断をすることができなくて、ご聖断を仰いだわけですが、陛下のご聖断を仰ぎますというようなことは、事前に一応のお話はあったんでございましょうか。

天皇:それは今、はっきりそうした記憶はないんですが。
記者:やっぱりその、ひとつのアウンの呼吸といいますか……。
天皇:ええ。


******


特に終戦の部分に関しては、鈴木の事を信頼されていたということがよくわかる記者会見であると思います。
しかし阿吽の呼吸でか。
こういう国家存亡の秋にこういう人物がいたというのは、日本にとって本当に幸運だったと思います。
鈴木は「九死に一生」の連続ですが、このために生かされてきたんじゃないかなあ…


と、まあこんな感じでこの話は一旦終了である。
なんというオチのなさ。笑
後はそうですね、西園寺公望の話が少しあったのと、加藤友三郎の名前が一ヶ所だけ。

加藤は関東大震災の直前、大正12年8月24日に亡くなっています。
当時皇太子として摂政を務めていた昭和天皇、箱根にいく予定だったのが加藤の死去に伴い政変が起こり、東京にいた。
大震災は9月1日。
より震源に近い小田原、箱根の被害はとても大きくて、避暑に来ていた皇族数人が亡くなっている。

箱根は震災で大被害を受けたが、もし箱根に行っていたら……加藤が守ってくれたのだ

こう言われれば加藤も本望だろうなー…
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サイト更新(加藤友三郎銅像@広島市)

■サイト更新【 史跡:加藤友三郎銅像@広島市 】


すいません、財部君の事ばかりをしていて更新を忘れていました。笑
最近夜10時前頃には起きていられない程眠たくなることが多くて、眠気との戦いにもあっさり負けてしまう。

さて。
2か月程間が開いてしまいましたが、広島旅行の史跡関連の続きです。
今回は上記広島市に2006年に新しく建立された加藤友三郎銅像。
元々あった広島市の史跡ページ、①広島城(広島大本営跡)②加藤友三郎生誕地③加藤友三郎銅像跡地に新しく付け加える形で更新をしています。

呉と江田島を訪れた最後に広島に足を延ばしたため、本当に見学時間が少なかったのですよ。
駆け足で訪れたのは生誕地と今回更新分の銅像だけ。
ということで生誕地の項も写真を新しく加えた上で色々と書き加えましたので、宜しければご覧下さいませ。


新設の銅像は大きめの公園の中に建っていたのですが、タクシーの運転手さんに聞いても詳しい位置が分からず…
えええー時間ないのにーバスに乗り遅れるー(どんだけギリギリか
…と半ば諦めかけたその時、運ちゃん車内から道を歩いていたおばさんに場所を聞くという荒業に!
ナイスワーク!笑

「ああ、あのシルクハット」(※即答の返事)



(↑あのシルクハット)

地元の偉人なので名前も覚えてあげて。笑

そう言えば2・3週間程前に読売新聞でしたか、戦前比治山に建てられた銅像の除幕式の映像が見つかったというニュースが出ていました。
ご子孫様の家から出てきたそうです。
タイムリーね。


次の更新は江田島でいく予定。
海兵ページは今迄何度か原型が残る形で改訂してきましたが、今回もそんな形に…
自分で作ったものながら、全面的に変えてしまうのが内容的に少し難しい。うむー
まあしゃあない。
とは言え、新しい写真を増やして古い写真のサイズは若干大きめに、公式HP写真も出典を記せば利用OKになっていたのでそれもお借りした。
なのでまだ見やすいだろう(という言い訳)。

余り間を置かずに更新したいと思います。
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パラべラム~堀悌吉(余滴)

*****

この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

*****


『明治天皇と日露大戦争』という映画があります。
今年の初夏頃にデアゴスティーニから出てましたなー
解説だけ立読みするつもりでいたのに完全に忘れてて、気付いた時には書店からはもう姿が消えていた。笑

昭和32(1957)年封切の約半世紀前の大ヒット作ですが、いまだに評判がいい。
多分一番評価が高いのはエキストラによる行軍で、まだ昭和32年ですからね~
映画の為に練習した、ではなくて、軍隊経験者が兵隊さんのエキストラで出てる^^;
本物が出てる。
これだけでもちょっとみてみようかな、という気にはなる。
(※見たことない人はツタヤに置いてある)


主人公は明治天皇ですが、戦死者名簿に目を通しておられたりと割と細かい所にまで描写が及んでいます。
これは作られた美談等ではなく実際の話で、一兵卒に及ぶまで全員の名前を見ておられました。
読みが分からなければ調べるように、変わった苗字は由来を調べるように指示されたり、階級が上の方になると写真も併せてご覧になっていたと日野西侍従の回想にある。

あまり知られていませんが、陸海軍の忠勇を長く伝える目的で、戦争ごとに御府も建てられています。
日清戦争は振天府、日露戦争は建安府という、まあ倉庫ですが、戦争の記念品、戦利品を収めていた。
こちらにその戦死者名簿も収められていました。

映画の封切は戦後まだ12年しか経っていない頃で、作る側も見る側も戦前の教育を受けた人が殆ど。
こういうの、当たり前の知識だったのだろうなと思います。

この映画を見ながら同じく当時は知ってて当然だったのだろうなと思うのが軍歌で、戦闘場面の折々にゆかりのある軍歌が流れてます。
中々絶妙に、しかも自然に流れてきて、知っていれば分かるけれど、知らなかったら分からない(笑)
色々知識が試される(笑)(何の)


実はですね、製作顧問として堀悌吉がこの映画に関わっています。
映画監督から考証を頼まれている。
このエントリを書くために一応確認と思ってレンタルしたのですが、名前は出てなかった。
『不遇の提督堀悌吉』(宮野澄/光人社/1990)を見ると、同期の広瀬彦太と一緒に現場であれこれ聞かれたりしていたみたい。

このことについてやや詳細が書かれている書籍、私の手元にあるのは『不遇の提督堀悌吉』だけなんです。
小説で申し訳ない。
日本海海戦の東郷ターン撮影の際のカメラの回し方は堀のアイデアだったという話は『堀悌吉』(大分県先哲叢書)にも出ていたのですが。

出典は恐らく広瀬彦太編集の『堀悌吉君追悼録』(堀悌吉君追悼録編集会/1959)。
確認したかったのですが所蔵が大学図書館だけで貸出し無理やった…
(そして同時に頼んだ『加藤友三郎元帥』に至っては「広島に行ってください」って言われた。酷い。笑)
今の段階ではこれ以上確かめようがない。誰か詳細を知らないか。

小説の方では三笠艦橋(勿論セット)での撮影の様子を見て、広瀬彦太が
「玉木がいない」
と叫ぶシーンがあるんです。
あーと思うよね…

今まで何度か書いてきましたが、堀や広瀬彦太ら海兵32期は日露戦争の真っ最中に卒業、余り間をおかず各艦に配乗されています。
三笠に配乗された候補生は11名で、クラスヘッドであった堀悌吉もここ。
広瀬彦太はどの艦だったのか私は知らないけれど、同じく同期であった玉木信介も三笠。


http://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_07260322.jpg


使い回し写真でごめんね。
右後ろに写っている白い服の候補生が玉木信介。
日本海海戦で勝利をおさめ、帰港した佐世保で三笠は爆沈しますが、その時に亡くなった堀たちの同期。
本当に色んな思いがあったのだと思う。


この映画、当時本当にヒットしたそうです。
会う人会う人が「良かった」と言って薦めてくるけれど、山梨勝之進はあんまり乗り気がしなかったそうです。
ただそんなに良いのならと映画館に足を運んで、実際に見たら涙が止まらなかったと本人が回想してる。
良かったらしい。

山梨さんは明治33(1900)年、三笠回航委員として渡英しています。
就航する前から関わったフネで、青年時代の肝脳を捧げたと自分で言っている程思い入れがある。

出ている人もね、みんな知ってるんですよ。
知っている人ばっかり。
明治天皇にも会ったことがある、山本権兵衛の副官を務めていた時期もあるので伊藤博文や小村寿太郎の所にも何回もお使いに行った。
日露戦争前には朝日艦で広瀬武夫と用談をしていることも、本人の口から伝わっています。
秋山真之に至っては第1次世界大戦の視察旅行のお供で8か月間一緒にいた。

堀にとっても山梨にとっても、本当に感慨ひとしおの映画であったのだと思います。



***



http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141215.jpg


これ何年か前に前ブログで一度出したことある写真。
とある本の中表紙に書かれていたのに気づいて超ビビる
思う存分撫で擦るというセクハラをはたらいてから返却した。笑

河野三通士は同郷杵築の友人のようです。
『英文毎日』の主筆を勤めたことのある人物で、ジャーナリストか。
堀が予備役編入後の昭和10年4月に来阪した際、河野と大阪湾を巡航したのだそうで。
そこに偶々居合わせたのが水野義人という大学生。

えっ。

えー…あの水野?
はい。あの水野です。
分からん人は阿川弘之の『山本五十六』を読みましょう(丸投げ)(笑)
事故死の多いパイロットの適性判断の為に、航空本部長時代の山本五十六が雇った観相見(手相・観相)です。
これがまた滅茶苦茶当たる。(当たるから航空本部の嘱託になったんだけど…)

堀はこの時に水野に観てもらい、現在の状況を当てられた上で、これからはそんなに悪くないということを告げられている。
こんなところで名前を見る人とは思っていなかったので少し驚いた。


***


大正6年海軍小演習の集合写真で、加藤亮一(主計)と思われる人がいました。
紹介で日本飛行機初代社長と書いたのですが、加藤の次に社長になったのが堀悌吉だった。
あ、同じ会社だったのか(笑)
堀の方は日飛、日飛、と覚えていたので、繋がっていなかった。笑
大分県先哲叢書『堀悌吉』によると、加藤の退任のタイミングを見ると、堀を入れるために辞めたんじゃないかという話。


***


ワシントンとロンドンの海軍軍縮で多くの海軍士官が予備役入りを余儀なくされました。
人員整理の必要性の有無に関係なく、リストラされた方には恨みが残る。
ワシントンの時は責任者である海相加藤友三郎ではなく、井出謙治にその矛先が向いたということはパラべラム(15)でも書きました。
堀も同じで、とある造船官から恨み節を聞かされたりしたそうで。


山梨勝之進の同期に宮治民三郎という人物がいます。
作家江藤淳の母方の祖父ですが(父方の祖父は江頭安太郎)、この方もワシントン会議後に予備役に編入された。
江藤には『一族再会』という家族の系譜を描いた本がありますが、その中でも一種強烈な印象が残っています。

宮治は海軍大演習で素晴らしい出来栄えを叩きだし、軍令部長に呼び出されて直々に褒められるような優秀な水雷屋であったそうです。
潜水学校の校長を最後として予備役入りしたのだけれど、これからという一番充実した時にまさかの宣告。
辞める積りも辞めたくもなかったのに辞めさせられた、そういう話を戦後に訪ねてきた孫江藤に語っている。
戦後ですよ。
余程の無念だった。
同じ思いを抱いて海軍を去らざるを得なかった人は、多くいたと思います。

加藤友三郎でさえ、同期の吉松茂太郎に

「友の野郎、あいつばかり偉くなりやがって、昔からの仲間である俺を邪魔にしやがる」

みたいな事を言われてしまう。
吉松は温厚で有名な人だったそうで、その人にしてこの言い草。(※吉松は軍縮以前に予備役入)

辞めさせられた人たちの思いは、まあなんというか。
海軍に残った人間への恨み節では収まらないだろうし、推して知るべし、でしょう。
ロンドン海軍軍縮会議の際、多くの予備役後備役の将官が決起会や会合を開いていたというのは、そういう感情の話もあったのだと思う。


予備役入りとなった時は潜水学校の校長だった宮治。
大東亜戦争が始まった時に、後輩たちの様子を見に行ったらこう言われた。

「大丈夫、教えられたとおりの事をしています」

えっ
宮治が辞めてから何年経ってんの…(※17・8年)

「馬鹿野郎!この戦は負けだ!」

そう怒鳴り散らして帰ってきた。そら負けてもしゃーないわ…
ただ日本も伊400とか伊401とか終戦間際にすっごいの作ってたんだけどね(本当にすごい)、本当に終戦間際過ぎて全然間に合わなかった。
こんなの作る事をもっと早くに許容できる組織だったら、歴史の推移も色々と変わっていたと思う。
(※12/21にナショジオで放送されます。『日本軍の極秘潜水艦』)

何時の時代も技術はすごいんだよ、日本。
何がダメってマネージメントが全然あかん。今も昔も。
経営が技術をダメにする。
伊藤博文や山本権兵衛がいなかったのが当時の日本の悲劇でしょう…


***


判明の変遷


財部彪、若槻礼次郎、谷口尚真


財部と若槻はひと目で分かる。
前列3人は名前が入っていたので、谷口もその時に自動的に判明。
長らくこの3人しか分からなかった。


財部彪、若槻礼次郎、谷口尚真、堀悌吉


この連載を始めてから改めて見て、堀悌吉が写っていることに気付く。


財部彪、若槻礼次郎、谷口尚真、堀悌吉、左近司政三、古賀峯一


サイトの「追憶(2)」に載せる左近司政三の写真を拡大加工した後にこの写真を見て同人であることに気付く。笑
中将の礼服を着ているので調べれば分かるだろうとは思ってたけど、そこまでする気はなかったのでラッキー。

そして大正6年海軍小演習の写真に古賀峯一が写っているのが判明した後、この写真を見てあれ?同じ人?
あとは左のふたりですが、調べる気はない(笑)
海軍の軍縮関係者だろう。


***


堀悌吉は阿川弘之の『山本五十六』の印象がとても強いです。
堀という人物を知ったのがこの小説だったからというのがあるのだろうなあ。

「山本五十六の親友」という話で終わってしまうことが多い気がしますが、見ていると「こんな人もいたのだな」と思います。
この連載の初めの方でも触れましたが、「戦争善悪論」とかね、見た時は流石にびっくりした。

こうした内容を文書として報告してしまう(学校の課題で)辺り、軍人としては相当特異であったと思います。
大正から昭和期の軍人としては誤解を受けやすい面もあったのでは?
大分県先哲叢書『堀悌吉』には、思想的に海軍での居場所を探すのが難しかったのでは?という旨の言葉がありましたが、本当にそうだったのだと思う。

「神様の傑作のひとつ堀の頭脳」と言われたり、海軍の至宝と言われたり、先の見える本当に聡明な人であったそうです。
先が見えすぎて、多分話が飛躍するのだと思う、話していて禅問答のようになってしまうこともあり、常人には誤解されやすい、理解され辛い点もあったみたい。

秦郁彦の本だったと記憶していますが(軍人の列伝だったと思う)、大失敗を迎える前には良心が駆逐されていく過程が必ずあるという旨の言葉があって、堀悌吉や山梨勝之進を見ているとその言葉をいつも思い出します。
大東亜戦争が負け戦だったからそう思うというのもあると思うけど。


パラべラムはこれにておしまいです。
ここまでお付き合い頂きましてありがとうございました。
というか長かった。お疲れ様でした^^

あー…
終わって良かった…(笑)
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パラべラム~堀悌吉(16)

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この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
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前回が9月20日。
このページの最終改定が9月30日。

色々間に挟まったからですが、なんというかすいません。笑
我ながら(笑)としか書けない。だって初回が8月11日だよ。笑
何時まで続くのって感じですが、目標通り今年中には終わります。
あと4回で終わるんです。本当です。笑



堀悌吉の話から昭和5(1930)年のロンドン海軍軍縮会議を廻る騒動を見ている最中です。
この軍縮条約を受諾したい派(海軍省系軍人)、破棄したい派(軍令部系軍人+東郷平八郎に近い人間)で海軍がふたつに割れてしまった。

この時の海軍の様相が大正10(1921)年のワシントン海軍軍縮会議の時とは全く違っているという話、
ワシントン海軍軍縮会議の時の加藤友三郎海相がどんな大臣であったか、
ロンドン海軍軍縮会議の時の財部彪海相がどんな大臣であったか、
当時の背景や、軍縮で名の知れた将官でさえリストラの対象になったという話

…をパラべラム(14)(15)で書きました。

今回はその続きです。


****


パラべラム(15)は、大正10(1921)年のワシントン海軍軍縮条約(以下ワ条約)の後、海軍士官もリストラにあっていたという話でした。

大体条約締結後の大正11~12年頃のこと。
ではこれでリストラは終わったのか言われたら、そうではなくてですね…
話題にはならなくても軍縮の処理はそれ以降もずっと続いている。
作る筈だった軍艦が作れなくなったので民間の造船会社に補償金やら賠償金やらを出したりしもしていますし、財政削減の折り柄、人件費が削られもしているので大正13年末には再度の人員整理が行われています。


https://blog-imgs-59-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/201312231245042af.jpg


大正10(1921)年時、原敬内閣の海相であった加藤友三郎は大正11(1922)年に総理大臣に就任します。
それがワシントン会議から帰って数か月後の事。
帰国した加藤が斎藤実に、

「アメリカでは死ぬかと思った」

と言うほど体調が優れなかったことは以前に触れました。
それがメディアをして蝋燭の燃え残り(残燭内閣)と形容せしめた程の状態で、総理兼海相を勤めた加藤は大正12年8月下旬、現職のままで亡くなります。

その後成立した第2次山本権兵衛内閣から昭和の浜口雄幸内閣に至る迄、間に村上格一、岡田啓介を挟みながら、3度海相を勤めたのが財部彪になります。


財部の時代に更に人件費が削減となったのは、大正12(1923)年9月1日(第2次山本内閣の成立直後)の関東大震災も大きな要因であったでしょう。
財部はそうした軍縮・緊縮財政の時代、経済的に余裕がない時代の海相です。
海軍と政府の間に挟まれる、中々舵取りが難しい時代の海軍のトップでした。


ワ条約で整理された人員は『加藤友三郎』(新井達夫/時事通信社/1958)によると、

準士官以上 … 約1700人
下士官 … 約5800人
(海軍関係の職工 … 約14000人)

とあります。
加藤が人員淘汰は上級者からと考えていたことは既に触れましたが、職業軍人が随分淘汰されている。
そして大正13(1924)年末、財部彪の時代もその方針を引き継いだようです。


財部彪


とはいえ、財部の時には古参将官の多くが既に予備役後備役退役となっている。
ワ条約の際には、海兵26期なんて大佐クラスをわざわざ少将にして予備役に入れているんですね。
この時の整理基準が主として海軍兵学校のハンモックナンバーだったようで、下位者から順番に予備役入りになった様子。
(20数年前の学業成績でこんな重要なことが決まるかと思うと相当キツい)。

26期HN上位者は残っていたものの、それが13年末に人員淘汰の対象になった。
その中に樺山可也がいます。
樺山は以前大正6年海軍小演習の件で名前を出した人物で、同期に清河純一、小林躋造、野村吉三郎、水野広徳がいます。
出身が鹿児島で姓が樺山という辺り、樺山資紀の親族か何かと思いますが事典レベルでは詳しいことは分からなかった。


樺山は海兵の成績は59人中の19位(これが上位とは思わんけど^^;)。
海軍大学校の甲種過程を優等で卒業していた人物で、周囲もかなり驚いたようです。
以前触れましたが、甲種は海軍の最高幹部養成コースになります。
つまり将来的に海軍の中枢に入ることがほぼ見えていた人だっちゅうことです。

その樺山が連合艦隊参謀長から呉鎮守府参謀長に転任した直後に転補内命、事実上待命の内命が出た。
びっくりするよね。
GF参謀長って、そういうレベルの職務にいた人にいきなりって。
当時呉鎮長官であった竹下勇も相当困惑したようです。

「ちょっと待て」

と思った人が多かったようで、野間口兼雄横鎮長官、鈴木貫太郎軍令部長らがそうはさせじと頑張っていたみたい。
また軍事参議官や各司令長官からも、財部自身が驚くほどの反発が出たようです。

そこで再度樺山を転補させたのだけれど、今度は薩派優遇だとの声が内部から上がることになった。
もーどーしよーもないわー

結局同期の清河純一に予備役入りの伝言を伝えさせることになった。(樺山は翌14年末に予備役入り)
判断が二転三転してますな。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014822_3.jpg


こういう時にね…支援者がいないとかなりきつい訳です。

しかも上記した民間造船会社への補償も、対象に川崎造船が入っているわけです。
川崎造船の社長はね、松方幸次郎。
この人は松方正義の息子なんです。
思い出して頂きたいのは財部彪の妻の妹の夫が松方正義の子、乙彦である事。
この乙彦の兄が幸次郎になる。
薩摩閥、その上親族ということで、正当な補償であっても薩摩贔屓だ優遇だと波風が立ってしまう。

部内で評判が悪いというのは、こういう時、非常に難しい。
職務という点においては、出身地もさることながら婚姻関係が非常なネックになっていたことが想像されます。

そして財部はこの時点で海相になって1年と少しという辺り。
財部は海軍省勤務の経験がほぼ無い状態で海相に就任したと前回書きましたが、樺山可也の処遇が二転三転したというのは、この辺りにも理由があったのじゃないかと思います。
部内の空気を読み切れてなかったんじゃないかなあ…


人員整理が視野に入るというのは、当時の時節柄仕方無かったと思います。
ただ財部のやり方はこなれてない。
この”こなれてなさ”がそのままロンドン海軍軍縮会議の紛糾にも出ている気がします。


続く


(財部好きな私涙目orz)
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