Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

余滴(1) 伊東巳代治の話

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この話は4回シリーズです。すでにサイトに纏めて移行済み。
そちらの方が読みやすい。
題は Odd Priority に変わっています。

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今日明日は昨日までの話で省いたものを余滴として更新します^^
今日は「優先順位がおかしい話」で省いた伊東巳代治の話。

●伊東巳代治

伊藤博文好きとしては避けて通れないのが伊東巳代治。
伊藤に限らず大正から昭和にかけての政治史を知るには避けて通れないのが伊東巳代治。

明治30年位までだけを見てたらね、カッコいいんだこれが。
才気煥発って感じで。掛け値なくイケメンだし。
イケメンというか、麗しい。笑。
ただやっぱり大正~昭和でやってる事を見たらね…うん…

巳代治についてはジョージ・アキタの「伊東巳代治論」が面白い。
ここまではっきり書いてあるものは他に見た事がないなー。
ぶっちゃけると初見、笑った。
伊東がなぜ政治的に孤立して行ったのか、そのいくつかの性向が浮き彫りにされてます。

私は巳代治は自分の利益ばかりだと書いたけれど、それは本当にそうで、特に金銭・蓄財への執着がすごい。
しかもその公私の境が曖昧。
山縣有朋はそうした巳代治の金銭に汚い点、そしてステイタスへの執着を軽蔑していた節がある。


http://blog-imgs-59-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/miyoji.jpg


多分山縣に限らず、という感じだと思うけど…
明治政府の元勲元老といった高官たちは、下級とはいえ武士階級の出身です。
以前勝海舟の事を書いた時に、”武士はお金の計算は賤しいものだとして遠ざけていた”ということを書いたけれど、まだそういう感覚は生きていて、
「これだから平民出身は…」
という感じで見られていたみたいですな。
巳代治は長崎の平民出身。
平民出身でもそうでない人は沢山いただろうけど、酷過ぎたんだろう。

ついでに言えば平民宰相と言われる原敬は南部藩(盛岡藩)の家老職の家の子。
上級武士の出身です。
公家出身の西園寺公望を除いたら、彼以前の首相の中では一番良い出自だった。
身分が平民というだけで実際には平民とは程遠く、そうした感覚は山縣よりも鋭かったと思われます。

巳代治は明治30年代の伊藤博文の失脚画策に関わった事を書きましたが、
山縣からすれば、その伊藤博文の事があってもなくても、巳代治を信用するということには到底ならなかったと思う。


アキタ氏曰く、
巳代治が疎遠になった人々の名簿は「近代日本の政治家名鑑をみるにも等し」く、
彼は上司同輩下僚を問わず「意義のある関係を維持することがまったくできなかった」。
密接に関係している政治家を悪しざまに罵り軽蔑し、頼ってくれた軍人や官僚を非難し、友好関係にあった政治家にもまた非礼をする。
急速に仲良くなるが、急速に疎遠になる。
巳代治の他人攻撃は、その欲深さと相俟って、徳義に欠け、信ずるに足りない人物との非難を招くこととなった」。
誰かが巳代治との関係を持っているのを見ると、「観るものはその関係を異常とみなしがちであった」。

山下亀三郎が知人から忠告を受けたことを引用したけれど、それが普通のリアクションだったみたい。

良い方に転べば、本当に太字で特筆すべき政治家になった人物だと思う。
良い方に転べば。

(ここまで書いといてなんですが、私がここまで悪く書くのは珍しい)


※ジョージ・アキタ 「伊東巳代治論 ―不成功に終わった政治家の生涯」
 (『日本の歴史と個性 下』 A.M.クレイグ他編・本山幸彦他監訳/ミネルヴァ書房/1974)


***


寝正月したいとか言ったから連休は家から一歩も出(られ)ない事になったんでしょうか。
なんだろうこれ…
こ、言霊?^^;
久々に家から出たら外は滅茶苦茶寒かった。(と言っても地元の寒さなんてきっと多寡が知れてる)

結局細川さん都知事選に出るんですね。
世が世なら熊本藩のお殿様っていうより、あー流石近衛文麿の孫ですねっていう印象の方が強かった。
あのあっさりした総理大臣の辞め方に上流階級特有の執着のなさを感じる。良くも悪くも。
しっかしすごいよね。
家系を遡れば近衛文麿、細川幽斎(息子の妻がガラシャ)、細川政元でしょ?
いやー三管領の細川氏といえば清和源氏、源義家ですよ。
先祖が八幡太郎。
すごいよね…

八幡太郎と言えば、平泉関連で訃報を見ました。
平泉研究の第一人者のひとり、大矢邦宣さんがお亡くなりに…
私の部屋にも何冊か著作があります。
現職が平泉文化遺産センターの館長さんで、世界遺産登録にも随分尽力されたそうです。
去年か一昨年だと思いますが、末期がんだということは何かのニュースで見ていました。
残された命を平泉研究に捧げたいという事を仰っておられた。
ご冥福をお祈りいたします。

そして個人的にはたかじんの訃報もショックでした。
好きだった。帰ってくるの待ってたよ…(;△;
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優先順位がおかしい話(3)

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山梨遺芳録より (第7回)


このような、手におえぬ難物の伊東巳代治であったが、原首相や加藤海相などは、これの操縦がまことに堂に入ったもので、役者がはるかに上であった。


山梨遺芳録にある、「優先順位がおかしい話」の冒頭にあげた引用に続く文章。
伊東巳代治にもやっぱり敵わない人がいた。
加藤友三郎が伊東がどういう関わりがあったのか、ちょっと私には思い浮かびませんが…
加藤は海相、後には首相を務めているし、伊東は枢密院の長老格であるし、まあ接触は随分あっただろうけど。
原や加藤とは確かに役者が違ってただろうな~


https://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/0138.jpg


『原敬日記』によると、閣議に海軍軍縮会議の話が上ったのが大正10(1921)年7月12日。
当時原敬内閣で、海相が加藤友三郎、外相が内田康哉。
この時の話は「アメリカがこんな事を言って来たよ」というもの(非公式)。
その後英米とのやり取りがあり、「11月11日にワシントンで会議をしよう」と正式にアメリカから案内が来たと書かれているのが『原日記』8月19日条になります。

この1ヶ月の間に会議の話が広がり、そうして誰が全権になるのかという話になってくる。
訪ねて来た渋沢栄一が金子堅太郎の名前を出してみたり、三浦梧楼が高橋是清(蔵相)が適任ではないかと言ってみたり。
伊東巳代治の名前も挙がっています。

『原日記』を見ると伊東の名前を持ち出したのは田中義一前陸相(7月23日条)。
田中曰く

「伊東を会議全権に勧誘してみたら?もし断ってきたら彼の将来の発言を止むる事も得るべしと山縣云ひたり

伊東にしてみたら?山縣もこう言ってるし、という感じ。
それにしても将来の発言を止めるって、要するに伊東の政治家生命断つって事で。
田中に対し、原はこう答えています。

「政略としては良いかもしれないが、真に伊東往かば失敗疑なく、国家の為には不利益至極ならん


後日原が山縣に面会した際にもこの話が出てまして(7月31日条)、


山縣: 伊東を太平洋会議の全権としては如何(笑)
原敬: それは田中からも聞きました。政略としては面白からんも真実国家の為を思ふ時は考物なり、多分失敗すべし
     最近は米国への返書の字句相談等を伊東にしてるけど、それで大満足してるみたい
山縣例の通り伊東の非難をなせり


例の通りって、いつもかよ(笑)
山縣の台詞の(笑)は私が付け加えたのでは無く、笑いながら話してるんですよ、原に。
まああれだ。本気じゃない。


全権の人選について原が具体的な名前を出したのは、アメリカから正式な案内状が来てからです。
内田外相に誰にするかと尋ねられ、原自身は日本を離れる事は不可であり、内田が行けないなら加藤友三郎海相が適任だと思うと、そう述べている(8月19日条)。
原が加藤に渡米依頼をしたのは数日後の8月24日ですが、その際、
「今回米国に派遣すべき人物は色々勘考したれども、君の外になければ」
君しかいないんだと言っている。


https://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/0254.jpg オンリー・ユー!


原は初めから加藤にする腹積りであったかと思います。
海軍からしっかりした人を出した方が海軍を納得もさせられるし、海軍を抑えられもする。
加藤はちょっと考えさせて欲しいとか斎藤実はどうかとか、その場では保留したものの、東郷平八郎・井上良馨元帥等に相談した上、受ける事にした。


https://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/koki.jpg


8月26日、原は山縣を小田原に訪ねて、全権を加藤に内定したい旨を報告。(『原日記』8月26日条)
是非を問えば山縣は加藤で異存はなく、そこで原は「人選の前、伊東はどうだと仰ってましたが」、と伊東の話を持ち出した。
そうしたら山縣は大笑いして


「あれは冗談だ」 哄笑して、あれはと云つて一場の戯言に過ぎざる事を示せり


おーい!(笑)
まあ、原が本気にするとは思ってないから言える事ですな。
山縣は更に伊東の話を続けます。

山縣曰く、
この前杉山茂丸が、
「伊東に招かれた際、『摂政問題の取調方を俺に命じるよう山縣に伝えて欲しい、原首相よりその内意を伝えるよう斡旋して欲しい』と言われた」
と話していた。清浦奎吾もそんなことを言っていたが、誰かから聞いたか?

原はそんな話は初耳で、溜息混じりだったのかどうなのか、

伊東は兎角そんな事のみ企て持懸け居れり、其のくせ吾々には毫末も好意なく妨げ斗りなし居る

原の言葉に山縣は「本当にそうだ」と相づちを打ち、

自分如きには早く死ぬがよしと云ふ位なり、
結局伯爵を望むに過ぎず、故に何も蚊も自分がなしたりと云ひたきものなり
 

https://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/yamagata.jpg

自分如きには早く死ぬがよしと云ふ位なり 
(あいつ、俺なんか早く死ねばいいって言ってる位だからな)

ここを読んだ時は思わず笑った。(※「何も蚊も」は原文ママ)
更にまだある。(『原日記』9月22日条)


山縣、伊東巳代治を操縦し置くの必要ある様に云ふに付、外務の相談相手となしたる事を告げ <略>
牧野も誰も伊東を好まず、且つ吾々に対して妨げのみなすに付困るとて非難せしに、山縣又口を添えて非難したり。
或いは山縣も平田等より説かれて伊東操縦を考へ居るやも知れざるも、根が好まざる人物に付二言目には非難に移るものゝ如し。


要するに山縣はアレだ。
大体オマエ気に入らねー!(GLAY)ってやつだ。笑。
牧野は牧野伸顕(大久保利通次男)、平田は平田東助です。
何にせよ、ここまで言われるってよっぽどだと思うのは私だけですか…
とまれ、山縣・原の両者が伊東をどう見ていたのかが、よく分かる会話であると思います。

うまいな~と思うのは、伊東を差し支えのない所で関わらせてプライドを満足させ、毒にならないようにしている所。
いなし方が上手。
それが冒頭にあげた山梨勝之進の言葉だったかと思います。

原も山縣も、伊東とは付き合いが長い。
この話の初めでも触れた通り山縣とは伊藤博文失脚の画策に関わっていますし、原とは政友会立ち上げの頃からの付き合いになる。
そんな頃から国家の上層で重大事を挟んでずっと関わって来ているので、相手の性格や出方がよく分かっていたんだろうな、と思う。

なんといいますか。
見ている限りでは本当に優先事項が自分なんだよね、巳代治…
良い面だって絶対にある筈だけれど、出てくる事出てくる事が強烈過ぎて、私はとてもそこまで好意的には見られなくなってます。

前回見た通り伊東は昭和に入ってからも政府をあれこれ困らせますが、伊東の相手になる側がね…
真っ当に相手にしすぎというか、正面からぶつかり過ぎている感じを受ける。

山梨はワシントン・ロンドンの両海軍軍縮会議に深い関わりをもった人物ですので、大正と昭和の対応の違いを思い、歯噛みするような心持であったのではないでしょうか。
そういうことをふっと思う一文でもあります。
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優先順位がおかしい話(2)

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山梨遺芳録より (第6回)

~ 前回までのあらすじ ~

台湾銀行救済緊急勅令案の会議の筈なのに、筋の違う政府の外交批判を展開し始めた枢密院顧問官・伊東巳代治。
みんなげんなりしながら聞いていたけれど、方向違いで謂われのない批判と御前でのお下品(?)発言に堪忍袋の緒が切れた閣僚がいた。

~ ~ ~

(※伊東巳代治は)果ては陛下の御前をも顧みず、「知らぬは亭主ばかりなり」などと放言して、私を罵倒した。
(『外交五十年』 幣原喜重郎/中公文庫/1986)

ブチ切れた閣僚は幣原でした。

http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/sidehara.jpg

幣原は当時若槻礼次郎内閣の外務大臣でした。黙っていられなかった。
枢密院会議に出席していた閣僚が黙っているので、若槻首相に一言いいかと断った上で、

・今日の諮詢は台湾銀行の件だ。貴方は外交について非難したが、何の関係がある
・いわれのない事実を痛論したが、その証拠を出せ
・よく調べもせずに憶測で虚構の事実で論断するのは甚だ迷惑
・陛下の前で私を中傷するのはどういう訳か。このように世間を惑わす責任をどう考えているのか

私の声はしだいに激越になるので、若槻首相もハラハラしている様子だ。
財部(海軍大臣)は小さい声で、「そんなのに相手になるな」という。
しかし私は黙っていては癖になるからと思ったので、ここで思う存分に反駁してやっつけた。


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/london1.jpg


黙っていては癖になるって…こ、子供か…
伊東は真っ赤になって怒ったものの御前であったので流石にそれ以上は何も言わず、それはその場で済んだのだけれど、会議が終わった後、


「貴様は実にけしからん。御前でおれを罵倒するとは、不都合な奴だ。」


逆ギレ。
そしてそんな伊東にさらに腹が立った幣原。


私に対して貴様呼ばわりである。これに対して私は、
「どっちが不都合か」
とやり返した。それからすこぶる不穏な場面に立ちいたり、まるでゴロツキの喧嘩のように、
「来るなら来い」
といいざま、私は腕をまくった。 
(※周りが止めました) 


幣原(笑)
笑う場面じゃないけど思わず笑ったこの場面。
いや…確かにね、本当に腹が立ったと思うよ…
あんなことを言われた挙句、台湾銀行救済緊急勅令案は枢密院で否決され若槻内閣は総辞職することになったし。


当時、総理大臣が辞職すると各皇族に挨拶回りに行くという慣例があったそうです。
宮家は市内(当時は東京市)に散らばっており、それを訪ねるためには当然あちこちを通らないと行けない訳で。
その際、若槻は銀行に黒山のような群衆が押し掛けるのを目撃しています。
取り付け騒ぎが起きてる…


私はそれを直視することが出来なかつた。こうなると思つたから、自分は一生懸命やつた。
それを枢密院が軽く見て、こんな事になつた。
(『古風庵回顧録』)


もう少し粘り強かったら、もう少し何とかなったのではと思う所は、正直言えばめっちゃある。
しかしながらこういう記述を見ると、後の歴史を思うと、やっぱり胸が塞がる様な思いがします…
まあ、あっちこっちで伊東は関係者を困らせている訳で。


ロンドン海軍軍縮会議の条約批准の際も枢密院の審査委員会のメンバーを全員批准反対の顧問官で固めたり。
政府から審査要請が来ているのに3週間ほったらかしにしたり。


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/hijunn.jpg
(『総合日本史図表』(第一学習社) に載ってた漫画)


ただどれだけそんな嫌がらせじみたことをしても、浜口雄幸首相は断固として譲らない。
譲らないよ!だって雄幸ですもの!(誇らしげ)(笑)
そりゃあ国家安危に関わることで、浜口自身が文字通り身命をかけて取り組んでいる上、昭和天皇・宮中・新聞・世論が浜口内閣の味方だった。
この条約批准については浜口のイニシアティブがすごくて、内閣も全一致。

あ、これもしかして歩が悪い?反対し続けるとちょっとまずい?
枢密院の面目丸潰れになりそう。
そう悟ると伊東は豹変。
 
「もう枢密院で議論するのは止めて、批准しよう」
「え?」

当時枢密院議長であった倉富勇三郎は唖然。
唖然というか裏切られた…

倉富は条約批准に反対でそれは伊東と同意見だったのですが、彼の反対理由は審議を通す手続きや法律の問題からくるもので(倉富は法律の専門家)、政治的理由で反対した伊東とはそこが違っていた(その辺りに倉富の限界があるように思います…時代についていけてない)。
伊東は他の委員にも批准を認めるように迫り、


承認を迫る伊東の演説は罵詈に渉り、委員の賛同を得ると急に顔を和らげ言も穏やかになった、
と(※土原註:倉富は日記に)悪意をもって書いている



枢密院議長の日記』(佐野眞一/講談社現代新書/2007)より。
原文じゃないのが残念な所ですが。


条約の審査上必要なる資料を得ずして適当なる審査を為すことを得ざるは当然なるに拘はらず、
伊東は山川、河井が必要なる質問を為し、又は正当なる意見を述べんと欲すれば罵言を発し、
又は委員長を辞すと云ふて之を威嚇し、無理に審査を結了し、委員をして自己の意見に一致せしめたり

(同上より倉富日記の引用の孫引き)


山川は山川健次郎、河井は河井操です。
書き手に悪意があるのでその辺りは勘案が必要ですが、しかし何といいますか。
幣原の回想録でも本人がいない所で伊東に無能を罵られる場面がありますが、うーん。罵声を浴びせずにはいられないのか…
とにかくこういう感じで時代を上っても下っても伊東巳代治に困らせられた人は結構いる。


以前山下亀三郎の本を読んでいたら伊東巳代治の話が出てきてました(『浮きつ沈みつ』/山下亀三郎/山下株式会社秘書部/1943)。
山下は明治~昭和の実業家で、愛媛出身。船成金として有名か。
同県出身という事で秋山真之と縁があり、秋山は山下の小田原の別荘で亡くなっている。
小田原の古稀庵(山縣有朋別荘)に行った時、本当に近くを通ったのに気付かなかったんだよ~
あるのは看板だけらしいけど、見られるものなら見たかった…
あの付近で瓜生外吉の別荘跡(胸像がある)をウキウキしながら探してたのは私ですorz

山下は伊東とは割と懇意にしていたようですが、それを見た先輩や友人から「君は気を付けてゐないと、今に酷い目に遭ふぞ」と忠告されている。
酷い目に遭うぞって…^^;
山下曰く、伊東との付き合いの呼吸は分かっているから別に問題はなかったらしい。
ただうわあ…と思ったのは、


同伯は常に
「自分は、長く猟をして猪や鹿を打ち、また吠える犬は打つたが、尾を振つて来る犬は一度も打つたことはない」
と云ふことを繰り返して言つて居られた。
 

それ、犬の話じゃないよね。


続く!
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優先順位がおかしい話

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山梨遺芳録より (第5回)


大正3(1914)年から始まった第一次世界大戦が大正7(1918)年に終結し、翌年パリ講和会議が開かれています。
そこで日本は山東半島と赤道以北の太平洋南洋諸島のドイツ権益を委任統治する事になった(日本は日英同盟を理由に参戦していた)。
その南洋諸島ですが当初は軍政が敷かれ、海軍がその受け持ちだったらしい。
山梨勝之進は当時軍務局第1課長で、海軍省内ではその主任であったと山梨遺芳録にはあります。
で、その事に関して枢密院顧問官であった伊東巳代治と接触があった。


講和条約批准の審査が、枢密院で行われたが、その主任が伊東巳代治で、その道にかけては、天下第一人者と自負しており、これが大の意地悪で、関係者を困らせていた。
外務大臣の内田康哉などは、いじめられて、ふるえ上がっていた。
その下にいた二上書記官は、これまた伊東にシンニウをかけたような男で、ピリオッドがどうの、コンマがどうのと細かい点をやかましく言っていた



これが大の意地悪で、関係者を困らせていた

あー…やっぱりね…(と思うのは私だけではない筈)
そして全く同じ事が書かれている本を読んだ事がある。
幣原喜重郎か若槻礼次郎の自伝だったと思うのだけれど、探し切れなかった。
記憶違いかな?
審査するために枢密院に回した書類が印刷物の写真で、その写りが少し悪くて見難いだけなのだけれど、これはコンマだピリオドだとそんなやり取りをしている、という感じの話 (※注)


伊東巳代治、今まで何度か名前を出しています。(関東大震災とか下関条約とか)
いやもうね、何なんでしょうね本当にこの人…
巳代治に苦渋を味わわされたり煮え湯を飲まされた(有名)人は1人や2人ではない。


https://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/miyoji.jpg 残念なイケメン


伊東は伊藤博文に見い出され重用された人物です。
井上毅、末松謙澄、金子堅太郎と合わせて伊藤博文の”四天王”。
中でも一番政治的な才能があったのが伊東で、伊藤の政治秘書であり情報参謀であった。
非常に才気溢れる人であったみたいだけど、上にも「天下第一人者と自負」とあるように、非常にプライドが高く自負する所が強い。
伊藤もそれをちょっともて余す感じ。

伊藤と伊東の間には、明治30年代初めに大きな亀裂が入り、袂を分かつことになります。
自分が思う程伊藤が評価してくれないという所に不満があったというのがその一因みたい。
いつまでも人の下にいるのが嫌だとか、他にも色々あるのだろうけど。
とにかく、それ以降伊東は伊藤に近づいたり離れたりを繰り返しています。

伊東にとって色々と決定的だなと思うのは、明治36年、政友会から切り離すために伊藤を枢密院議長にするという山縣有朋の謀略に力を貸しているというところ。
うーん。これねえ…
要するに伊藤を政治の第一線から引かせるという事ですよ。半ば引導ですよ。
こうなってくると、最早どちら側の人間か分からない…

伊藤からすれば、裏切り者。
山縣からすれば、自分を見出して30年近く面倒を見てくれた親分を政敵に売る人間。
こんなことする人、山縣でなくても誰だって自派に入れるのは嫌だと思う。
三国志だと「主を裏切るような奴は、どうせまた寝返る」とかいって曹操に殺されるパターンだ…^^;
結局どこの派閥にも行けなくなった。(なので伊藤に付かず離れず)
明治30年代に枢密院に入ってからは、そこが伊東の舞台になります。


伊藤が煮え湯なら苦渋は以下。

・後藤  新平: 関東大震災後の復興計画(主に土地関係)に反対 (※大地主だった) 大正12年
・若槻礼次郎: 恐慌を防ぐ為の緊急勅令案、枢密院で否決→若槻内閣総辞職→恐慌ひどくなる 昭和2年
・幣原喜重郎: 国際協調路線の外交を大批判 大正後期~
・浜口  雄幸: ロンドン海軍軍縮会議時、統帥権干犯騒ぎの片棒を担いで政府攻撃 昭和5年


あんた 一体 何してんの? (正直な感想)


私が、というか…一般的に知られているだけでこれだよ…
苦渋なんて言葉が生温く感じる程の出来事である。そらそうだ。全部教科書に載ってる大事件だ。

伊藤博文はまだいいよ。個人的な話で済んでるから。
でも上の4条は違うよね?ね?
本当に質悪いと思うのは、個人としてではなく枢密院顧問官としてこういう事をしている点。

枢密院のボスなんですよ、伊東。
「枢密院は癌」だとか、「枢密院の癌」だとか、そういう事を言われても仕方ない。
若槻礼次郎や幣原喜重郎は、本当に困らせられた人のひとりだと思う。
両者の自伝にも伊東巳代治が出てきます。


台湾銀行救済緊急勅令案を通す際の枢密院会議で、何故か伊東が外交批判を始めた。
緊急勅令案の為の会議なのに…
違う問題でもあるしと、出席していた閣僚は黙っていたのだけれど、そうしたら


その老顧問官は、ますゝゝ調子に乗つて、陛下の御前をも顧みず、「町内で知らぬは亭主ばかりなり」という、俗悪な川柳まで引いて、外交攻撃をした。
まるで枢密院を、自分一人で背負つているような勢いであつた。
私はもう癪にさわつて、一つ相手になつて喧嘩をしたかつたが、場所が場所であり、立場が立場だから、ジッと腹の無視を抑えて黙ついていた。


『古風庵回顧録 若槻礼次郎自伝』(若槻礼次郎/読売新聞社/1950)より。

老顧問官は伊東巳代治、陛下は言うまでもなく昭和天皇になります。
立場が立場というのは、当時若槻は首相であったためで、じっと我慢の子。

そうしたら、その伊東に喧嘩を売った猛者がいたよ!


続く!(笑)


(※注)
このエントリを書き終わった後に見つけました。幣原喜重郎の回顧録『外交五十年』です。
幣原の話では、ロンドン海軍軍縮条約の話になっている。
どちらかの記憶違いということではなくて、どちらでも同じような事を枢密院はしていたのではないかと思います…^^;
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