Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

落ち穂拾い(4)

植木駅の待合室で母子連れに会ってだな。
附近の地図を確認していたら、
「もしかして田原坂の方に行かれますか?」
「あー…行ってきたところです…」
話を聞くと、東京からの親子連れ。

乗った電車が田原坂には止まらないものであったようで、ひとつ前の植木で降りたらしい。
そうなのだー
普通なのに田原坂に止まらない電車があるのだ…!
無人駅だからか?
それで植木からタクシーでということであったのだけれど、植木からよりは木葉からの方が断然近い。
というか、田原坂駅からタクシーで行くより木葉駅からタクシーの方が断然近いぞ!多分!

…という話をマイルドにしたのだけれど(したんか)、残念ながらこれぞ後の祭りである。笑
お気の毒様。
暫く一緒に話をしていたのだけれど、来年の明治維新150年に合せて出ているスタンプラリー(全国版)をお子さんが集めたいということで、あちこち回っているとの事だった。
正気なの?(震え声

タクシー来るまで20分?ああ、それ位掛かるでしょうね。
次の電車?行ったばかりだから30分後ですよ。
「え…30分……?」
すぐ来ますねー
「30分…」

横手行きの北上線は2・3時間に1本ですよ。涼しげな時刻表

全然調べずに東京の電車の感覚で来たらしい。
私も阪神間で30分と聞くとキーッ!となるけどね。
旅行先だと1時間に2本もある!になる不思議…


植木はとてもじゃないけど歩きでは回れないので、私もタクシーで観光。
この辺りは本当に乃木希典の関連が多い。


乃木希典@植木


千本桜。
小倉第14連隊が退却集結地にしたところ。
連隊長乃木希典少佐がここで点呼を取った所、連隊旗手河原林少尉が到着していなかったところから彼の悲劇が始まります…


河原林少尉墓地@植木 


河原林少尉のお墓。
河原林少尉が切り殺され、軍旗を奪われたところ。
石垣?の上にあって完全に逆光ですねそうですね。
久々に行ったらここまで登れる階段が付けられておりました…
タクシーの運転手さんに伺うと、NHK大河が篤姫の時に出来た、そうです。
そうなの?私多分篤姫の後に来てると思うのだけど、記憶違いしてるのかな(私が

西南戦争の頃はまだ連隊にとって連隊旗は死ぬほど大事なものではなかったのだけれど、昭和に下ると完全に神聖なもの扱いとなっております。
破れたからといって再下賜なんかはされないのですよ。乃木の時はされているのだけれど。
なので歴史のある部隊の連隊旗であると、房と棹しかないとか、そういう状態。
完全に残っている連隊旗は殆どない、というか靖国神社に残っている1旗のみ。

連隊旗手ってね、凄く目立つのです。
そらー言ってみれば連隊の顔なので当然ですが、そうであるから連隊旗手の選考基準は、
士官学校を卒業したばっかりの新品少尉で、

眉目秀麗・容姿端麗・長身であること。

笑ったあなた、本当ですよ。
若いイケメンじゃないと連隊旗手にはなれなかった。

連隊旗は下賜とありましたが、昭和になると天皇から直接連隊長に拝受されるようになりました。
居並ぶ皇族、元帥、参謀長、首相陸相と言った文官連中の中で、連隊長と連隊旗手のふたりで貰いに行く。
そらー初代連隊旗手なんて名誉以外の何物でもなかっただろう。
連隊長とは言え天皇を至近距離でなんてことが滅多にある訳なく、居並ぶ文武百官とも物凄い身分の隔たりがありますので、拝受式は緊張するなんてもんじゃなかったそうです。

連隊旗と言えば、最近読んだ『脱線陸軍よもやま物語』に連隊旗手は童貞でならなければならないという話があった、とあり、思わず笑ってしまった。
しかしながら連隊長が連隊中のメンバーを見回しても生臭い奴ばっかりで、中々チェリーっぽいのがいない。笑
当時の若い将校は花街色町ではモテモテで、公然とその方面の後輩指導をやっていた時代。

そこで目を付けたのが士官学校を卒業したばかりの少尉。
士官学校は飲食店・デパートに入ってはいけないという厳格な教育を受けていたことになっているから、一番チェリーボーイである確率は高い。
だから毎年卒業してくる新品少尉の成績の良いのが任命されることになっていた。


だが、一年もたつと、例の後輩指導によって、清純であったのも、そろそろ怪しくなり、中古車なみになるから、つぎの新車と交換することになる。
だから通常、この栄ある任期は一年である。


そうか、それで任期1年やったんや。笑
河原林少尉はイケメンだったのだろうかー(こら
明治10年だと多分そんなこと考慮されてなかったと思うけど。

植木はずっとタクシー利用でした。
官軍墓地に行ったり薩軍墓地に行ったり、神社に行ったり、多分1時間ぐらいであったと思います。
そのままやってきた電車に乗ったら、同じ車両で上の親子連れと再会してしまいこれまた笑ってしまった。
こういうこともあるのね。
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落ち穂拾い(3)

乃木希典@木葉


熊本の木葉、木葉駅から一番遠い所にあったのが乃木希典奮闘の地。
神社の麓にありました。
そしてこの神社の階段を上り切った所にあったのが薩軍砲営陣地跡。
え…どういう距離関係…

駅から歩いて30~40分位ではないかと思うのだけれど、ここに来る前に高月官軍墓地に寄っているので正確な所が分からない。
西南戦争時、木葉には官軍本営が置かれていた時期があるので、官軍関係の史跡があちこちにあります。

駅からの道をまっすぐ進むと国道208号線に当たります。
その国道に面している正念寺が官軍病院になっていた。
この正念寺を少し上がった所に官軍本営跡があり、そこから「田原坂攻撃官軍第一線」まで大体1キロ。
歩いて15分掛かるか掛からないか位で、本営が非常に前線に近くて驚きました。
多分田原坂(1.5㎞)を上る時間の方が長い(笑)


田原坂資料館 


お久しぶりの田原坂西南戦争資料館。
何年か前に植木町が熊本市に合併され、北区植木町になりました。
建物も展示内容も大幅にリニューアルされております。資料館の方に聞くと、建物のリニューアルは1年半ほど前であったそうです。
良い時に来た。

従来熊本城天守閣で展示されていた西南戦争関係の展示が、こちらにやってきていました。
地震の関係で天守閣は現在閉鎖されております。
同じく天守閣に展示されていた龍驤(初代艦)の一部はどうなったんだろう…

桐野利秋、辺見十郎太の書簡も1通ずつ出ていて、これはラッキー。
石黒忠悳が描かせた神風連の乱時の刀創記録(明治九年神風党暴動時刀創図)も展示されていた。
恐らく日本刀を交える戦争はこれで最後になるだろうと画家に描かせたもので、指が無い、肉が避けて骨が暴露している…など大変生々しく、印象に残るものでした。
薩摩隼人が相手だとより一層ひどかったと思われます。

石黒忠悳(ただのり)は日本陸軍の初期の軍医総監になります。
軍医制度を作り上げた人物。
サイトでは脚気論争の話で名前を出していますので、覚えている方もおられるかと思います。
森鴎外の上司であった人ですな。
日清日露戦争の際の脚気暴発の大惨事は、森というより石黒忠悳や小池正直といった森の上司の責任だろう(しかし結構なことをしている森に責任がないとは思わない)。

娘婿が小野塚喜平次。
東大卒で、同窓に浜口雄幸、幣原喜重郎、勝田主計などがいます。
明治28年に卒業したので二八会という。
雄幸とは仲が良く、主席を争った間柄。
雄幸が首相となった際、東大総長に推したのが小野塚でした。

小野塚の友人で二八会のひとり、農業経済学の大家であった矢作栄蔵が講道館繋がりで広瀬武夫と仲が良かった。
どうも矢作は仲が良かった大学の友人と柔道の友人を仲良くさせたかったらしく(笑)、間を取り持ったらかなりの仲良しになってしまったという経緯があります。
という訳で小野塚は広瀬の友人のひとり。


田原坂駅


田原坂の資料館を見学した後は、近くにある熊野座神社に立ち寄って、田原坂駅まで更に徒歩。笑
25分ほど。
電車が来るまで暫くあったので、昔見た民謡田原坂がどこに刻まれていたのか探したのだけれど分からんまま終わってしまったのだった…

そして植木駅に着いたのが15時頃。
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昭和天皇と周囲の人々(主に明治)(4)

前回までで川村純義、足立たか、乃木希典、東郷平八郎、鈴木貫太郎の名前を出しましたが、『陛下、お尋ね申し上げます』で少し語られていたのはこの人々位。

昭和天皇は日露戦争以前の明治34年のお生まれで、維新を生きた人々と生きた時代が若干被っており、教科書に名前が載るあの人やこの人ともお会いしているのですね。
なんちゅう羨ましさ…
あの人どんな人でしたかとか、そらー聞いてみたい気持ちに駆られるわ。笑

昭和天皇に質問した記者たちも同じように思う人がいたのか、折に触れて関わった人の事が聞かれている。
引用は上記書籍より。


★★昭和46年4月20日の記者会見

昭和天皇が幼少期に教育を受けた川村伯爵、乃木学習院長、東郷御学問所総裁、杉浦重剛のエピソードがあれば聞かせて頂きたいという問いに対して。


*****
**川村純義について


天皇:
川村純義大将のことだと思うが、赤ん坊の時で、なにぶん小さく、それに短い間だったのでよく覚えていません。


でしょうね。^^;
川村純義については、まあそうだろうなあと思います。
3つ4つだと記憶があってもかなり遠いよな…
昭和天皇と1歳違いで、川村に預けられていた時は2・3歳であった弟宮(秩父宮)にしても、川村家の事は何一つとして記憶にないと回顧されています。

川村家での話は、イヤイヤ期(笑)の話を書きました。
ただ厳しくしても迪宮が風邪なんかひこうものなら、川村は袴に着替えた上で、小さい手を握って夜通し看病をしていたそうです。
簡単な風邪でもすぐに袴が出されるので、侍医は否が応でも真剣の上に真剣にならざるを得なかったそうで。
厳しかったけれど、当然ながら、そらーもーそらーもーめちゃくちゃ大事にされていた。

先日まずは大山巌に里親の話が降りたという件を書きましたが、これってどういう選考がされていたのだろうと思うのですよ。
条件はあることはあったのですね。以下4点。

 ①武勲明らかなる老臣であること
 ②夫婦とも壮健である事
 ③子女を養育した経験があること
 ④家庭の和楽が豊かなこと

その上で、父君である大正天皇もさることながら、明治天皇の意向が強く働いていたというのがね…
選ばれたのが大山、次いで川村か、と思うのよ。
ふたりとも西郷隆盛の親戚である。


西郷隆盛 川村純義


若い頃に短期間であれ接した西郷隆盛に、明治天皇はとても大きな影響を受けています。
それ故に、明治天皇は明治10年の西南戦争の鎮圧は喜んだものの、西郷を逆賊とし、その上生命を奪った政府と軍の主脳からは心がやや離れてしまったのですね。
それが政務軍務のサボタージュとなって現れます。
これは大分前に「Relationship」という話で書きました。

見ているとその心の傷は時間が解決していった様なのですが、それも10年ほどという結構な時間が掛かっている。
迪宮が生まれたのはその更に10年後のことですが、うん。
西郷隆盛の関係者であったからなのかなあ…


*****
**乃木希典について


天皇:
学習院の乃木大将については、私が学習院から帰る時、途中で偶然、乃木大将に会って、その時乃木大将から
「殿下はどういう方法で通学していますか」
と聞かれたのです。

私は漫然と
「晴天の日は歩き、雨の日は馬車を使います」
と答えた。
すると大将は
「雨の日も外套を着て歩いて通うように」
といわれ、私はその時ぜいたくはいけない、質実剛健というか、質素にしなければならないと教えられ、質実剛健ということを学びました。<略>


乃木希典 東郷平八郎 


乃木に関しては昭和57年9月7日にも聞かれていて、その時は強い影響を受けた本は?という内容。
記者が、「例えば乃木が『中朝事実』を差上げたことは吾々も知っているのですが」と問えば、


天皇:
『中朝事実』のことは、これは事実でありますが、まだ初等科の時代ですから、よく読んではいませんけれども、そのあとで乃木院長は殉死したのですが、どうもその気持ちがあって、そういう本を私にくれたかと思ってます。


昭和天皇はそうは言うけれど、大正6年9月13日(乃木の命日)、東宮御学問所にご進講に上がった杉浦重剛が、
「乃木将軍が献じた本がある筈だが、」
と皇太子に話を向け、また本について質問するとそれにもきちんとした答えが返ってきたそうです。
杉浦は退出するとそのまま乃木の墓所に報告に向かったとのこと。

この『中朝事実』ですが、鈴木貫太郎が侍従長になった時に随分探したのだけれど、見つからなかったそうです。


*****
**東郷平八郎について


天皇:
東郷元帥については、東郷元帥や先生たちから帝王学というものの基礎を教えてもらったが、誰がどういうことをと批評することはできないが、平等にすべて今も尊敬しています。


ほうほう。
この時東郷については特に言及がなかったのですね。
所がですよ。


★★昭和53年12月4日の記者会見

記者の、東郷元帥とか保育にあたった足立たかなどの思い出はどうか、という問いに対して。


天皇:
東郷元帥に対しては私はあまり深い印象をもっていないから、鈴木タカに対してのみをここでは述べることにしたいと思います。


東郷元帥に対してはあまり深い印象をもっていない。

そうなんだ。
これは結構意外だった。

実は昭和57年9月7日の会見でも乃木と東郷の印象に聞かれていて、その時も
東郷元帥に対しては、あまりそういう印象はなかった
とお答えになっているのですね。

ただ東郷は以前「ParaBellum」で書いたように、最晩年の、晩節を汚したと言われてもしかたない行動をしているのでなあ…
敢てあまり突っ込まなかったという見方も、もしかしたら有りかなと思います。


つづくー
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昭和天皇と周囲の人々(主に明治)(3)

迪宮裕仁親王が学習院初等科を修了する前年頃より、卒業後の教育をどうするかの模索を乃木希典は始めます。
小笠原長生なんかに相談しつつ陸軍士官学校と海軍兵学校を足して2で割ったような、そして文武両道の帝王教育を構想していたらしい。
ただ宮内省を説いて回るも中々理解も協力も得られなかったようで、しかもその途中で乃木が自刃してしまう。
ただ教育構想の骨子枠組みは引き継がれたようです。


乃木希典 東郷平八郎


そして大正3(1914)年4月1日に開設された東宮御学問所の総裁として就任したのが東郷平八郎になります。

この御学問所開設当初の職員は、
総裁 東郷平八郎(海軍)
副総裁 波多野敬直
幹事 小笠原長生(海軍)
評議員 大迫尚敏(陸軍)、山川健次郎、河合操(陸軍)、竹下勇(海軍)。
軍人が多いですなあ。

御学問所の学生は皇太子と御学友、合せて6人。
授業の時は東郷総裁と副総裁、小笠原に加えて評議員の誰かが、学生らの後ろに座って毎日参観していた。
御進講する先生も大変だわ。
授業の準備に何か月も前から掛かり切りになったというので、そらー大変だっただろう。

後にフランス語の御進講をすることになる山本信次郎も、1時間の授業の為に4時間を費やしていたと云います。
その為にマメにしていた諸氏との書簡のやり取りをふっつりと止めてしまったそうで、準備4時間とはいうものの、恐らくそれでは間に合わなかったのではなかろうか。

この御学問所時代に皇太子と東郷の間に何かしらのエピソード…
はあると思うのだけれど、正直影が薄い^^;
乃木程の強烈なインパクトのある話は、あまりないような感じがします。


ちなみに、東宮御学問所が開設されていた期間、海軍の軍事学の御進講を担当したのは、前半が竹下勇、後半が安保清種。
陸軍の方は3人。(端折ったー。笑

海外経験豊富な竹下が海外旅行の話なんかを交えて授業をしていたそうで、軍事学の中では一番人気であったそうです。
先日サイトで更新した大正10年の皇太子御外遊時の供奉員に竹下が加わっていますが、それはこの時の縁、御学問所で御進講をしていたということも考慮されていたようです。


鈴木貫太郎


そして更に時代は下って昭和4年。
侍従長珍田捨巳の死去に伴い、その跡を襲ったのが鈴木貫太郎でした。

鈴木は当時軍令部長を務めていたのだけれど、この時を以って現役を引退します。
侍従長を8年間勤めておりまして、細かいことは部下に任せ、要所は自分が舵を取るというスタイルで、「大侍従長」と言われていたそうです。
この侍従長在職中に2・26事件が起こったものの、先日紹介した妻・たかの助けにより九死に一生を得ている。

また昭和20年に昭和天皇たっての願いということで、総理大臣に就任しています。
当時の総理大臣職は「大命降下」といって、天皇の命令によって臣下が首相となり組閣するものでした。
天皇が”頼む”のは異例中の異例で、恐らくこの、鈴木の時だけだと思います。


全然話違うのですが、『タイムスリップ 竜馬と五十六』っつー小説があってだなー…
この本の中で東条英機が首相に立候補してたんですよ。
私電車でこの本読んでて女子にあるまじき吹き出し方をした(笑)

立  補 て。

著者w
幾らなんでもやっつけ仕事すぎるww
ファンタジーとは言えもっときちんと調べんかいwww

続くー
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昭和天皇と周囲の人々(主に明治)(2)

迪宮裕仁親王が学習院初等科に入学したのは明治41年4月のこと。

この約1年前に乃木希典が学習院院長となっており、皇孫入学のための準備を進めています。
乃木を望んだのは明治天皇の様で、院長就任以前、山縣有朋が乃木を参謀総長にしようと奏請した処、明治天皇に却下されております。


乃木希典


乃木の迪宮に対する教育方針は質実剛健と忍耐、厳しく自己を律すること、正直、といったもので、それに沿ったエピソードが散見されます。
昭和天皇も乃木には感化されたようで、戦後の記者会見でご自身でそう語られている。


迪宮が乃木と接した期間は4年程、そう長くない期間です。
言うまでもなく明治45年7月29日の明治天皇の崩御によって終わりを告げた。
明治天皇の大喪はその1か月半後の9月13日に行われましたが、この日は乃木希典夫妻が自決をした日でもあります。


この2日前の11日、乃木は青山の皇孫御殿に迪宮(12歳)、淳宮(秩父宮/11歳)、光宮(高松宮/7歳)の3親王を訪ねます。
秩父宮の回顧によると、この日の乃木の様子は頬髯と顎髭が伸びたまんま。
普段の面影が無く、そのあまりの変り様に秩父宮は唖然としてしまった。
11歳の子供がそう思うほど、異様な窶れ方だった。

この時乃木は山鹿素行の『中朝事実』に自らが朱筆を加えたものを持参していました。
いつも兄弟3人一緒に会っていたそうですが、この時乃木はまず迪宮だけに会い、その後その内容を長時間にわたって説明したそうです。
そして、

「ゆくゆくご成長されたら、よくお読みになって頂きたい」

そう迪宮に諄々と懇請した。
幾ら聡明とはいえ、12歳の子供には乃木の解説する内容は恐らく分からなかったと思います。
しかし乃木のいつもとは違う、尋常ではない雰囲気に、

「院長閣下はどこかへ行かれるのか」

迪宮はそう尋ねています。

言うまでもなく乃木は親王たちに最期の別れを告げに来ていたのですが、それに気付いていたのは迪宮だけであったようです(1歳違いの秩父宮でも気付いていなかった)。


続く。
短くてごめん…orz
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