Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め。特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

21 2017

軍歴証明書ノート(6)

亀の如き歩みで昭和15年末の入営前後の話から漸く長沙作戦までやってきました…(アウトプット
あとどの位かかるんでしょうね。
 
取り敢えず親戚に配布するのに30部欲しいということで。
30部か…
うーん、これ製本か?同人誌か?友人に聞くか?と思っていたのですけれども。
あれこれと調べたらば、最近のコンビニのコピー機が凄くハイスペックになっていた。
自分に用途がないので知らなかっただけですが、USB保存の文書から中綴じの小冊子プリントが出来るという。
もうこれでいい。ぎりぎりまで頑張れる…orz

ページが4の倍数に達したあたりで、製本したらどういう見栄えになるのかを確認すべく(年寄りばかりなのでな!文字が小さいとか論外なのだよ!笑)実際にプリントしに行ってみました。
まあいい感じなんでない?
少し整うとそれらしく見られるから不思議ですね。


20170921




そして陸軍さんの軍事用語が分からなくて辛い。
そもそも一括りに野砲って書いてあるけど、そもそも野砲とは何ぞや。
野砲と山砲ってどう違うのとか、そのレベルからですからね!この物知らず!
というか私山砲の読み方を長らくさんほうだと思っていたのだけれど、さんぽうだった。
さんぽーへーだった…(そこからかー
しかしながらあれこれ読んでみてスペックをやや理解した辺りで、本を読んでいても少し見当がつくようになってきた。
基本的な所を押さえるのは大事ですね。

野砲というのは「野戦砲」のことで、野戦場で用いられる大砲のこと。
野戦場での使用が目的なので、装輪砲架(砲架に車輪をつける)で移動できるというのが最大の特徴。
逆に固定して使うのは海岸砲や要塞砲になります。
この野砲、いくつか種類があって、それが榴弾砲、野砲、山砲。
……?
野砲の中に野砲…(この辺りで既に混乱気味
お、おう…。代表的な砲ということか…?
陸軍の花形として使用されていた大砲は主に野砲・山砲だそうです。
で、これがどう違うかというと、一番の差異は山砲が分解できるという点。

普通に考えると、大砲は口径が大きくて砲身が長いほど破壊力があります。
しかしながらそれは「大きくて重い」ということで、そういうものは山岳地帯とか、ジャングルとか湿地では使えないのですよ。
大型であればあるほど運用するのに多くの人員と馬、車両が必要になるので、展開できる地形が限られてくる。
馬と車両は大砲の牽引力です。
砲兵部隊の起動源であって移動の際に絶対に必要で、お馬ちゃんや車が通れる所じゃないといけない。

これを解決したのが山砲で、これは野砲からの開発になる。
大東亜戦争時期、主力であった野砲の重さを調べると、放列重量で大体1~1.6トン(放列重量とは射撃状態での重量のこと)。
人間の力で移動させるのは無理である。
これに比べて山砲は大体540kg、これをいくつかに分解して、馬もしくは人間で運べるようにした。

運べるようにって簡単に言うけれど、分解したパーツ、1個大体100キロあんねん。
それひとりで持つねん。
日本人の体格から臂力搬送は100キロ辺りが限界というのが陸軍当局で研究した結果。
100キロ無理?重い?
精神力でカバーしろ。(真顔
ノモンハン事件後のセリフと全く同じで震えるわ…
100キロある砲身を持って訓練場にあるとある丘を駆け上るのが山砲兵の華と言われたそうです(白目)


山砲臂力搬送
臂力搬送の様子


動画もyoutubeで出ていた。⇒〔日本軍〕野砲・山砲(別窓)
確かに野砲とは大きさが大分違う。

山砲は比較的優秀で身体頑健な兵が選ばれ、実際に大柄な人が多かったそうですが、これは確かに頑丈でないと無理だっただろう。
あと分解した砲を背負った人の話として、腰が抜けるほど重かったというのも見たのだけれど、腰が抜けるとかいう重さではない。


山砲臂力搬送
100キロ…


分解した山砲の駄載と卸下は、初年兵の頃に随分訓練されたようです。
分解から6馬への駄載を6人の砲手で、1分半で行う様に訓練されていたようで、砲手の一糸乱れぬ連携が必要だった。
初年兵から見ると神業に近かったそうです。
しかし初年兵でも訓練を続けて1ヶ月過ぎる頃には2分以内に作業完了できるようになっていたというから驚きます。

山砲兵は分隊に1門山砲を持っていて、6人の砲手、4人の弾薬手(弾薬班)がいる。
山本七平の本を見ると、砲兵は観測・通信・砲手・馭者のパートに分かれていたようだけれど、どれか被っていたりするのかな?ちょっと分からん。
山砲兵第19連隊の弾薬手であった人によると、弾薬手は各種信管に関する種別、特性、着弾距離による装薬の分量といった教育を受けたそうで、山砲兵にはある程度優秀な人が選ばれたというのに納得しました。
山砲だけでなく砲兵全体を通じての話だったのだろう。
ちなみに本当に優秀なのが選ばれるのは通信兵、そして輜重兵であったそうです。
これは『兵隊たちの陸軍史』に載っていた。


山砲1門を駄載するために馬は6頭必要になります。
12・3人の1個分隊に山砲1門、馬6頭。
大体2人に1匹の割合で馬がいる。
長沙作戦時の山砲兵第40連隊2011人に対して馬は1217頭。
やっぱり大体2人に1匹で、馬は本当に大事にされていた。
一頭一頭にちゃんと名前があって、砲兵は自分のことよりも先に馬の世話。
人の名前を覚えるよりも先に馬を覚える、という感じであったそうです。

砲兵は傍に馬がいたから悲惨な戦場でも人間性を比較的保っていられたという文章を読んだことがある。
戦友会誌を読んでいると、本当にそうだったのだと思う。
物言わぬ戦友であり、妻であり、恋人であり、子供であり。
インパール戦の撤退で食糧のない中自分の割り当て分を馬に与えていた兵。
慈しんでいた馬が死んで心が壊れた兵、後を追うようにして病死した兵。
人の運命も悲惨だけれど、馬の運命もまた悲惨で、インパールの辺りの話は見れば見るほど悲愴な気持ちにしかならない…
19 2017

落ち穂拾い(4)

植木駅の待合室で母子連れに会ってだな。
附近の地図を確認していたら、
「もしかして田原坂の方に行かれますか?」
「あー…行ってきたところです…」
話を聞くと、東京からの親子連れ。

乗った電車が田原坂には止まらないものであったようで、ひとつ前の植木で降りたらしい。
そうなのだー
普通なのに田原坂に止まらない電車があるのだ…!
無人駅だからか?
それで植木からタクシーでということであったのだけれど、植木からよりは木葉からの方が断然近い。
というか、田原坂駅からタクシーで行くより木葉駅からタクシーの方が断然近いぞ!多分!

…という話をマイルドにしたのだけれど(したんか)、残念ながらこれぞ後の祭りである。笑
お気の毒様。
暫く一緒に話をしていたのだけれど、来年の明治維新150年に合せて出ているスタンプラリー(全国版)をお子さんが集めたいということで、あちこち回っているとの事だった。
正気なの?(震え声

タクシー来るまで20分?ああ、それ位掛かるでしょうね。
次の電車?行ったばかりだから30分後ですよ。
「え…30分……?」
すぐ来ますねー
「30分…」

横手行きの北上線は2・3時間に1本ですよ。涼しげな時刻表

全然調べずに東京の電車の感覚で来たらしい。
私も阪神間で30分と聞くとキーッ!となるけどね。
旅行先だと1時間に2本もある!になる不思議…


植木はとてもじゃないけど歩きでは回れないので、私もタクシーで観光。
この辺りは本当に乃木希典の関連が多い。


乃木希典@植木


千本桜。
小倉第14連隊が退却集結地にしたところ。
連隊長乃木希典少佐がここで点呼を取った所、連隊旗手河原林少尉が到着していなかったところから彼の悲劇が始まります…


河原林少尉墓地@植木 


河原林少尉のお墓。
河原林少尉が切り殺され、軍旗を奪われたところ。
石垣?の上にあって完全に逆光ですねそうですね。
久々に行ったらここまで登れる階段が付けられておりました…
タクシーの運転手さんに伺うと、NHK大河が篤姫の時に出来た、そうです。
そうなの?私多分篤姫の後に来てると思うのだけど、記憶違いしてるのかな(私が

西南戦争の頃はまだ連隊にとって連隊旗は死ぬほど大事なものではなかったのだけれど、昭和に下ると完全に神聖なもの扱いとなっております。
破れたからといって再下賜なんかはされないのですよ。乃木の時はされているのだけれど。
なので歴史のある部隊の連隊旗であると、房と棹しかないとか、そういう状態。
完全に残っている連隊旗は殆どない、というか靖国神社に残っている1旗のみ。

連隊旗手ってね、凄く目立つのです。
そらー言ってみれば連隊の顔なので当然ですが、そうであるから連隊旗手の選考基準は、
士官学校を卒業したばっかりの新品少尉で、

眉目秀麗・容姿端麗・長身であること。

笑ったあなた、本当ですよ。
若いイケメンじゃないと連隊旗手にはなれなかった。

連隊旗は下賜とありましたが、昭和になると天皇から直接連隊長に拝受されるようになりました。
居並ぶ皇族、元帥、参謀長、首相陸相と言った文官連中の中で、連隊長と連隊旗手のふたりで貰いに行く。
そらー初代連隊旗手なんて名誉以外の何物でもなかっただろう。
連隊長とは言え天皇を至近距離でなんてことが滅多にある訳なく、居並ぶ文武百官とも物凄い身分の隔たりがありますので、拝受式は緊張するなんてもんじゃなかったそうです。

連隊旗と言えば、最近読んだ『脱線陸軍よもやま物語』に連隊旗手は童貞でならなければならないという話があった、とあり、思わず笑ってしまった。
しかしながら連隊長が連隊中のメンバーを見回しても生臭い奴ばっかりで、中々チェリーっぽいのがいない。笑
当時の若い将校は花街色町ではモテモテで、公然とその方面の後輩指導をやっていた時代。

そこで目を付けたのが士官学校を卒業したばかりの少尉。
士官学校は飲食店・デパートに入ってはいけないという厳格な教育を受けていたことになっているから、一番チェリーボーイである確率は高い。
だから毎年卒業してくる新品少尉の成績の良いのが任命されることになっていた。


だが、一年もたつと、例の後輩指導によって、清純であったのも、そろそろ怪しくなり、中古車なみになるから、つぎの新車と交換することになる。
だから通常、この栄ある任期は一年である。


そうか、それで任期1年やったんや。笑
河原林少尉はイケメンだったのだろうかー(こら
明治10年だと多分そんなこと考慮されてなかったと思うけど。

植木はずっとタクシー利用でした。
官軍墓地に行ったり薩軍墓地に行ったり、神社に行ったり、多分1時間ぐらいであったと思います。
そのままやってきた電車に乗ったら、同じ車両で上の親子連れと再会してしまいこれまた笑ってしまった。
こういうこともあるのね。

乃木希典

16 2017

軍歴証明書ノート(5)

IMG_4544.jpg


泣きながら読んでる(色んな意味で
長沙作戦が辛すぎる…

学生時代にですね、『一死大罪を謝す』という阿南惟幾の伝記を読みました。
何で読んだのかはちょっと覚えとらんのだけれど、多分修士論文関係で読んでみようと思ったのだと思う。
阿南に対する著者の好意的な見方へのもの凄い違和感と嫌悪感を持って読み終えた。
戦友みさわちゃんに「なんであんな好意的なん?おかしくない?納得いかん」と話した覚えがある。
あー…
なんというか、この人物に関してどう思うかというのは今迄書いたことはなかったのだけれど、やっぱり無理だ…

ひとりの軍司令官の見栄と名誉のために、ほぼ思いつきに近い作戦で砲弾も食料も持たされずに将兵が敵陣に突っ込まされ、数千人が死傷した(第二次長沙作戦)。
しかもその軍司令官の当時の日記には積極性が足りないだの、2日絶食すればより動けるだの(※兵隊は30㎏の装具を背負って厳冬期に不眠不休で戦っており、食事抜きなど考えられない)、挙句の果てに自分が専断で進めた作戦を部下のせいにするだの、体が震えるようなことばかりが書かれている。

この軍司令官は実行の必要のない作戦を勝手に起こして大損害を出しても左遷もされず、何らの処分さえ受けずに、最終的には最後の陸軍大臣へと栄転する。
本当にどういう組織なのかと目を剥く。

今年の8月15日にNHKで放送された「戦慄の記録 インパール作戦」で、斎藤と仰る当時少尉の方の証言がありました。
兵隊を5千殺せばここは落とせる等と平気で口にする高級将校らの姿に、
「日本の軍隊の上層部が考える兵隊なんてそんなもん。その内実を知ってしまうと辛い」
映画になった『蟻の兵隊』にしても同じで、こいつら、部下の、兵隊の生命をなんだと思っている。

勿論そんな高級将校ばかりであったわけではないけれど、部下も大切に出来ない、正しい状況認識も出来ない、状況が分かっていても空気を読んで流される、合理性よりも精神性に傾く、こんな軍人を量産していた軍の教育は失敗だったと思う。
14 2017

軍歴証明書ノート(4)

徴兵検査を受け、5分の1の確率で貧乏くじを引いてしまった壮丁は、翌年の1月10日に入営します。
日中戦争の頃はそうだったらしい。
当時出版されていた「入営のしおり」っぽい本を見ても同日でしたが、時期によって違うのかな?
祖父は同年の12月でした。

この時に入営日時や入営部隊所在地等が記された「現役兵證書」が所轄の連隊区司令官名で送られてきたそうです。
家のじーさんのは残ってなかったのだけれど、青年学校手帳の最後に徴兵検査の結果と連隊区司令官以下調査官の印が残っていて、あと入営時に渡されたと思しき紙が残っていた。
それには「第一乙 山砲兵 第参六番 仲多度郡神野村 (氏名)」と書いてある。

ちなみ曽祖父の軍隊手帳は残っている。
(1)で昭和12(1937)年の支那事変以降は徴兵率が上がり、それまでは満20歳男子の5人に1人であったものが昭和15年には2人に1人となったと書きました。
軍隊手帳があるということはこの「5人に1人」になってしまったわけで、明治39年の12月に歩兵第12連隊第10中隊に入隊している。

歩兵第12連隊は編成地が丸亀で、師管区は言うまでもなく善通寺。
第11師団は日露戦争の旅順攻略に参加していて、もしかしてと思い能々見てみると、歩兵第12連隊は東鶏冠山の担当になっていて、第1大隊が白襷隊に参加している。
第10中隊は恐らく第2大隊か第3大隊だったと思うが。
しかし家のひーじいさん、あと2・3年生まれるのが早かったら旅順で戦死していたかも。





入隊1年目は初年兵で、この時の階級は二等兵。
翌年に初年兵が入ってきたら自動的に一等兵になる。つまり二等兵=初年兵。

初年兵時には1年を6期に区切って教育・訓練を受け、期ごとに連隊長や旅団長から検閲(習熟度を見る検閲)を受けていた。
初めの4ヶ月がその第1期で、ここで兵隊としての基礎訓練を受け、ここをクリアすれば戦場に出してもまあ良かろうという状態。

この第1期検閲で優秀な兵が上等兵候補者になり、特別教育を受ける事になる。
とは言え候補者全員が上等兵になれるのではなく、選抜がある。
上等兵への選抜は半年毎位で行われていたようで、初めが12月。
ここで選ばれると「一選抜の上等兵」といって、在隊している間の箔になったそうです。
祖父の軍歴を見るとこの一選抜でした。
昭和15年12月に入隊、翌16年5月の第1期検閲後に中国に渡り、12月に上等兵に昇進している。

平時に上等兵になるのは大変で、初年兵の1~2割程度。
上等兵で満期除隊となり農村部や漁村部に帰ると、村長が一席設けてくれる程のものであったそうです。
ただ光人社の『よもやま物語』シリーズをいくつか読むと、支那事変以後は3年ほど兵隊を続けていると大抵上等兵になれたようで、この辺り戦時と平時では随分様子が違っている。
戦争が起こると人員が足りなくなるというのもあるだろう。

陸軍のヒエラルキーの中で一番多かったのが一等兵。
兵役は2年もしくは3年で、平時であればそれで満期除隊になるけれど、戦争中は中々そうもいかない。
出征地では除隊即日召集が常態化し、3年兵、4年兵の一等兵なんてざらにいる。
戦争も末期になると6年7年なんて古兵もおり、こうなってくると小隊長や中隊長でも、ちょっと遠慮がある、頭が上がらないということもあったそうです。
小隊長中隊長、若いし明らかに経験が少ないしね…

兵隊の世界では「星の数よりメンコの数」といって、星の数=階級より、メンコ=飯、軍隊でメシ食った回数が多い方が上。
上等兵や兵長でも、自分より年次が古い一等兵には逆らえず、階級が上でもビンタされたりすることもあったそうです。

兵長は某漫画で近年よく知られる階級かと思いますが、これは支那事変後の昭和14年に出来た階級。
上記の通り兵役満期になっても除隊されない古参上等兵の数が増加したためで、その調整のために作られた。
そうだったんだ。

二等兵ー一等兵ー上等兵ー兵長 ここまでは「兵」
兵長の上は伍長、その上は軍曹、准尉(特務曹長)と続きますが、こちらは「下士官」

実際に軍隊を支えたのはこの下士官、特に軍曹と准尉。
然しながら総じて下士官は積極的、優秀で、戦場でも敬服すべき働きぶりを示すものが多かったとのこと。
戦争では分隊長として兵隊の先頭に立ち、部下をいたわり、善戦したのがこれら叩き上げの下士官。


指揮能力というのは、いかに部下を殺さず、いかに戦果をあげるか、にかかっている。
そしてその根幹をなすのは、部下より先におれが死のう、あとにつづけ、の精神である。

下級の兵隊が上官に敬礼するのは、陸軍礼法できまっているからでも、相手の学歴や階級を尊敬しているからでもない。
一にその指揮能力を信じ、死ぬときは先に死んでくれる、という思いがあったからである。

しかし多くの統率者は、自分が偉いから敬礼されるのだと安直に錯覚し、兵隊の期待を裏切った事例枚挙に遑がない。
ただ、分隊長である下士官が兵隊の期待を裏切ったという事例は、率からいうとほとんど無いのである。 (『兵隊たちの陸軍史』)


『兵隊たちの陸軍史』には大正10年生まれ昭和17年2月入営の人物の軍歴が紹介されていて、それを見ると
17年2月二等兵、
 同年8月一等兵、
18年2月上等兵、
 同年8月兵長、
19年3月伍長、
 同年8月軍曹。
著者曰く、


入営後三年六ヶ月で軍曹というのは最高に早い出世で、同時入隊兵でまだ一等兵の者が三分の一はいたはずである。
通常この年限で伍長になれれば目立った出世であった。
一等兵と上等兵の差でさえ、いかに隔たっている(出世に時間がかかる)かを、兵隊経験者ならよくしっているはずである。


そうなんだ…
この方、祖父より1年遅い入営。
祖父は入営1年後に上等兵、その2年半後の昭和19年6月に兵長、昭和20年8月に伍長。
復員直後の昭和22年3月、現役除隊の前日に軍曹になっている。
これは所謂ポツダム進級かと。

母から祖父は軍曹になって帰ってきたと聞いていたのだけれど、確かにそれは本当だけれど、まあ実質的には伍長…というより兵長か。

そう思うとこの方、確かに無茶苦茶早い出世である。
12 2017

とある海軍士官の死

先週、松村純一のご子孫様よりご連絡を頂きました。
ありがたや…

松村純一は海軍兵学校18期で、加藤寛治、安保清種の同期になります。
加藤と安保は海軍兵学校の予科生徒からのスタートですが、松村も同じ。
予科は大雑把にいえば父兄に海軍関係者がおれば受験資格があり、松村の場合は父が海軍さんでした。


向井弥一 松村純一


松村については「栴檀#3」で上の写真を紹介させて頂きました。
日露戦争の際、アルゼンチンから買い付けた日進と春日、この内の日進を必死のパッチで日本まで回航してきた回航委員のひとりである。
ちなみに春日の回航委員長は鈴木貫太郎でした。

調べていた際は出身地が不明であったのですが、この度佐賀だと教えて頂きました。
で、調べていた時にはちょっと見られなかった昭和17年編纂の海軍義済会名簿も先日調べたのですが、松村純一の本籍地は東京になっておりました。
そらー私では無理ー。笑
ちなみに海軍士官は軍歴の途中で本籍地を変えてしまうことが結構あります(東京や神奈川が多いと思う)。

向井弥一のご子孫様より沢山頂いたあの人この人の若き日の写真が、佐賀出身者と同期海兵15期が多かったので、一体どういう関係なのかな?と思っていたのです。
まあ15期と18期なら、兵学校で顔を合わせていただろうし、位で。
あと柔道繋がりがあったかも?位で。
同郷の方であったのですね。


松村の父が佐賀出身の松村義櫢(よししげ)という人物だとも教えて頂きました。
漢字難しい…
櫢の字が初見で、どういう意味なのかと字通を調べたけれど掲載されていない。
字通で載ってないって一体。そんなことあるんか^^;

明治4年生まれの松村純一は、翌5年に父に伴われて上京したようだ、とのこと。
こちらも海軍義済会名簿に名前が出ていました。

最終階級が大尉、本籍地佐賀、明治17年10月8日に36歳で亡くなっている。
若い…
病気かと思いアジ歴を見ると、筑波艦で航海中の病死となっている。
こちらでは「十月二十八日病死致候」(11月20日 松村大尉病死御届/C10101535000)と海軍省に届けられていて、史料作成の年代と性質から正しいのはこちらでしょう。
義済会名簿、「2」を落としているのでは(15期の広さんを広さんと書き間違えていた所から、義済会名簿にはそこまで絶対の信頼を置かなくなっているのである。笑)。

明治17年、筑波艦で航海中に病没ですか…
……。
……………。
えっ?

明治17年、筑波で航海?


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ちょっと待て。
それは脚気実験のフネではないのか。

調べました。
脚気関係のファイル出してきました。
ビンゴ!
名前出てたわ。


脚気


画像大きすぎてすいません。
これ以上小さくすると文字が読めない…

松村義櫢大尉は筑波艦で行われる脚気病予防試験の委員に任命されています。
明治16年11月30日任命。
『明治期における脚気の歴史』の参考文献になっている『海軍脚気病予防事歴』も確認したのだけれど、


脚気


委員の名前が出てくる直前でコピー終わってた…
ちょっと…自分……
しかし気を取り直してデジコレで調べた所、既に公開されていました。


脚気


この筑波艦の航海は海兵11期の遠洋航海で、明治17年2月3日からニュージーランド、南米チリ、ハワイを経て11月16日品川帰着。
松村義櫢大尉の命日は明治17年10月28日であるので、帰国直前に亡くなったことになります。
さぞや無念であっただろう。


明治17年以前の海軍における脚気の状況は「日本人なら麦を喰え 海軍編」をどうぞ。
軍艦の艦長が釜を焚かなければならない位、当時の海軍ではバッタバッタと脚気で人が倒れていたのですよ。
その大惨事の起きた艦として挙がるのが前回名前を出した龍驤艦。
元々は熊本藩が政府に献上した軍艦です。
だからその一部が熊本城の天守閣に飾られていた。
なんだろう、前回脚気と書いたから脚気に繋がったのか、コレ。笑

脚気改善の突破口になったのが、この筑波艦での実験になります。
筑波の乗組員はこの実験に非常に熱心で、海軍がお金が掛かると渋るのを、龍驤と同じ経路で実験したいと言い出して、それを通している。
筑波艦=現場の調査委員は、艦長有地品之允、大尉松村義櫢、軍医青木忠橘と主計片岡直輝の4人。
松村大尉、この熱心者の一人であったと思われます。


この実験で脚気での死者は発生していません。
なので松村大尉の病没の原因は脚気ではない筈。
『海軍脚気病予防事歴』を見ると、84頁に「士官一名腸窒扶斯ニ罹リテ死没セリ」とあり、恐らくこれだと思う。
腸チフスで亡くなったようです。

少しググってみたら、松村義櫢大尉、青山霊園にお墓があるとのこと。
佐賀城本丸歴史館の「佐賀偉人伝」のブログに、墓所と墓碑が紹介されていました。
こちら、読んでいると死因は腸チフスではなく、「のちにこの結果は「脚気1名」と訂正されましたた」とある。
あ?そうなん?
参考文献に上がっていた『軍鑑「筑波」―偉大なる航海―』(岡本健)に

後日の海軍医事報告撮要にはチリのコキンボからハワイまでの航海で「脚気 1 名あり」と記載されている

とある。
そうなんだ。
ちょっとその『海軍医事報告撮要』とやらを確認したいのだけれど、いつの報告か分からない。
デジコレで出ているのは明治25年以後で、見た限りではそういった目次はなく、それ以前の出版のものだと思う。
実験が明治17年なので、明治18、19年あたりのものだろう。


葬儀は明治17年11月18日、青山霊園にて行われています。
長男松村純一により「故松村義櫢葬式ニ付上請」という文書が前日に書かれていて(文書中”佐賀県士族”と書かれている)、これは海軍葬を要請する内容(故松村義櫢海軍大尉会葬式施行許可相成度件 聞届/C11019235400)。

宛先はないのだけれど、筑波艦長有地品之允に渡され、東海鎮守府長官中牟田倉之助が副申(参考意見)をつけ、海軍卿川村純義の手元に。
海軍葬は許可され、軍楽隊が派遣されている。
海軍葬どころか、筑波艦の実験で脚気をほぼ撲滅できた海軍としては、感謝してもしたりない士官のひとりであったのではないかと思います。私としては。


正直、ここまで話が広がるとは思わなかったので驚いてしまいました。
知らないだけで、本当に沢山の人物がひとつの組織を支えているのですね…
そして本当に沢山の人生があるのだと思います。
青山霊園、今度広瀬武夫のお墓参りに行く時に探します。
是非お参りしたい…

松村純一 松村義櫢