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明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

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日本海海戦、日進の惨劇(3)

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この話は5回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代史 > MTS-ALL よりどうぞ。
題は『海軍の本より』に変わっています。

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題がそぐわない。


『追悼 山本五十六』、『残花一輪』より続き。
いや、なんてゆーか、本当に続くとは…^^;


日露戦争終結後の明治39年、日進乗組みであった市川恵治少尉は通常勤務の際に旅順口攻撃の際に打撲した箇所を2度強打するという事故に遭い、最終的に立てなくなる程になりました。
和泉乗組みの時もそんな感じでしたが、この時はもう我慢で通用するような状態ではなかった。

舞鶴海軍病院に入院し、左股関節の切除手術を受けたものの経過良好ならず、軍医は左足を切断した方がいいという判断に落ち着いた。
市川もそれには反対しませんでした。
やるなら一気にやってくれ。

ただ彼が今まで激痛に耐えてきたのは軍人として奉職できるから、入院したのも海上勤務に戻りたかったからだった。
それが完全に奪われてしまうことになる。
何のために生きるのか。
心が完全に折れ、2度3度と自殺未遂をし、神経衰弱になった。


『残花一輪』に書かれているこの頃の様子を見るに、人の心配や言葉を全く受け入れられない状態になっています。
なんといいますか、こんな書き方したくないけどまるっきりキ○ガイですわ。

ただ市川が5・60代ならまだしも、日露戦争に参加したのが少尉候補生時、22・3歳。
海軍を辞めることになったのが手術を受けた時だとすると、24・5歳です。
そら、かわいそうだよ…
自暴自棄になっても仕方なかったと思うけど、家族も周囲も手におえなくなってしまった。

最終的に東京大久保の某寺に寄寓することになり、住職の話を聞く内に憑き物が落ちたようになった。
明治42年に得度とあるので、日露戦争が終わって4年。
実に長い間の身体的、精神的な苦しみでした。

どうしても『坂の上の雲』で描かれる花形の将官に、華やかな方に目が行ってしまいますが、戦後に苦しんだ将校や兵士、家族は山ほどいたと思います。
市川はそんな中のひとりだったのだろう。


市川にはすごくお世話になった上官がいて、それが明治39年当時日進の副長であった真田大佐(市川在籍中は中佐)。
ん?と思いましてね。
もしかして真田鶴松かしら…
調べたら市川よりも卒業年が上の真田姓には真田鶴松と真田権太郎のふたりがいました。
15期と18期ね。

『残花一輪』の原稿は明治42年のクリスマスに書き上がり翌年出版されたのですが、真田大佐が一部内容を校閲している箇所があります。
うん、、明治42年当時で大佐である真田さんの方ですね。
18期のクラスヘッド加藤寛治でさえ大佐に進級したのが明治43年12月ですので、真田鶴松で間違いないです。

真田鶴松。
広瀬武夫と同期でして(前回名前が出た松井健吉も同期)、ブログ・サイトで何度か名前が出てきています。
東京万世橋に広瀬の銅像を建立するのに(嫌々ながら)涙ぐましい努力をしてくれた人だ!(笑)
ありがとう!

真田は市川が日進にいた際、
「頑張りすぎ、体を壊すぞ。今日は時間もあるのだから上陸して遊んで来い」
と声を掛けてくれたり、部下には好かれる副長だったようですな。
真田は市川の得度式にも出席してます。

意外だったのは、市川の姉、皇室と関わりがあったみたい。
市川が姉の家に身を寄せていたころに、11・2歳の女子と8・9歳の男児がいたのを見て、話でもしたいと軽く姉に振ったら、

「あんた何言ってんの!?あそこにおられるのは若宮殿下と姫宮殿下よ!」

この若宮殿下ってもしかしたら昭和天皇の事じゃないかと思うんだけど…
お姉ちゃん何者。


***


『追悼 山本五十六』に話を戻すと、山本五十六と市川は日進艦上で約5か月程寝食を共にしていた。
山本の死が公表された後、それを知った新聞記者が何か特ダネはないかと訪問して来たり、答えに窮すると所があったようです。


蟻の塔のような艦内を巡回見学中、右舷やら左舷やらがわからなくなったり、
前甲板のつもりで上甲板に出て見ると、何とそこが後甲板であったり、
甚だしきに至っては下甲板以下でとうとう迷子になってしまって、所在の兵に道を聞き聞き、
やっと自分どもの公室へたどり着いてホッとしたというウソのような失策もあった。

それにまだ乗り馴れぬ悲しさには、ろくな波でもないのに意気地もなくよっぱらって仕事に差し支えたり、
万事がこんなザマでは戦時のお役に立つどころか、時には上官から艦内の邪魔物のようにもこきおろされて、
泣きたくなることさえあった。

こうした自分などに丸一ヶ年後れて、これも遠洋航海抜きでポカンと「日進」へ新乗してきた高野候補生たる者、
またお多分に漏れぬ存在であった。<略>
栴檀の嫩葉らしいところは、自分ごとき者の凡眼にはいっこうに見受けられなかったというのが、
当時における自分の偽らざる高野候補生観である。



以前触れたように、市川ら31期は遠洋航海を経ず、練習艦に半月乗っただけで各自各艦に配属になっています。
心構えもないまま、いきなりの配乗はいろいろキツかっただろう…^^;

高野五十六とは他の後輩と同様に接し、特に親しくしていたとか、そういう感じでもなかったんだろうと思います。
ただ戦闘終わり、高野候補生が担架でランチに運ばれている際に一言二言言葉を交わしていて、それが市川が高野、後の山本五十六ですが、と顔を会わせた最後の機会になった。



時飛んで日露戦争から32年後の昭和12年、市川の元にある老人が訪ねてきた。
聞けば日露戦争に出征、触雷で沈んだ駆逐艦速鳥乗組みで、後に日進に配属された元下士官だった。
市川は初瀬の例もあり彼を可愛がり、少尉任官の際には少尉候補生の軍服をそのまま与えたりもしたようで。
老人は年も年だし(74歳)、今生のお別れにと岡山からやって来たのだけれど、しかしながら市川は覚えてなかった^^;
あーあ…
それでも家に逗留させてやり、東京見物に連れて行ってやりとする内に、聞いた話がふたつ。

・重傷を負った高野五十六候補生を抱き下ろして負傷者収容所へ運んだのはこの老人だった
・速鳥で戦死した森下基一少尉の墓所を知りたい

そこで市川は、あっ、と思い、


「明日はお前をド偉い人に会わせてやるぞ。よいか、びっくりするな。それは米内海軍大臣と山本海軍次官だ」


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140603.jpg 左)山本 右)米内


「お前は海軍大臣と次官に会いに来た身であることを気がつかずにいるのだ。
お前は無紹介で両大官に会う資格を立派に具えている。
俺は米内さんとは兵学校で同じ分隊で一ヶ年間、文字通り寝食をともにした仲であるから、会って話せばご記憶があろうと思う。
そして森下基一少尉は米内さんと同期の秀才だった。
その部下たりしお前が今生の願いで展墓したいから少尉のご生国を調べていただきたくて
身分も忘れて推参致しましたと言ってみろ、大臣だろうが大将だろうが、必ずお前に会うに決まっている。
山本次官に至っては一も二もないことだ。<略>」



…いや~…
調べたらね、森下基一「少尉」は、森下基一「大尉」で朝日の分隊長で日本海海戦で亡くなってるんです。
日露戦争自体は30年以上前の話だからなあ…
老人の記憶違いは起こりうると思うけど、老人が正しいことを伝えているのに市川が間違って書いている可能性も…
市川の文章は資料批判の重要性をまざまざと感じさせます^^;


市川は足の具合が悪くて付き添えなかったけど、市川の妻が老人と一緒に海軍省まで行った。
で、米内海相と山本次官は会ってくれたかというと、これがすんなりと会ってくれた。

米内はすぐに墓所の所在を調べてくれ、山本は老人の話を聞いて感無量になってしまった。
山本は情の厚い人でしたので(部下の殉職時には遺族が驚くほど泣いたり)、これは流石に大袈裟だったりとか記憶違いではないと思うなあ。

揮毫を頼んだ所ふたりとも快く承諾して、老人は家宝がふたつできたと喜んで帰って行った。



『追悼山本五十六』がここまで広がるとは思ってませんでした。笑
軽い気持ちで引用したんだけど、思いがけない発見ができて面白かったです。 
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