Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

とある海軍士官の死

先週、松村純一のご子孫様よりご連絡を頂きました。
ありがたや…

松村純一は海軍兵学校18期で、加藤寛治、安保清種の同期になります。
加藤と安保は海軍兵学校の予科生徒からのスタートですが、松村も同じ。
予科は大雑把にいえば父兄に海軍関係者がおれば受験資格があり、松村の場合は父が海軍さんでした。


向井弥一 松村純一


松村については「栴檀#3」で上の写真を紹介させて頂きました。
日露戦争の際、アルゼンチンから買い付けた日進と春日、この内の日進を必死のパッチで日本まで回航してきた回航委員のひとりである。
ちなみに春日の回航委員長は鈴木貫太郎でした。

調べていた際は出身地が不明であったのですが、この度佐賀だと教えて頂きました。
で、調べていた時にはちょっと見られなかった昭和17年編纂の海軍義済会名簿も先日調べたのですが、松村純一の本籍地は東京になっておりました。
そらー私では無理ー。笑
ちなみに海軍士官は軍歴の途中で本籍地を変えてしまうことが結構あります(東京や神奈川が多いと思う)。

向井弥一のご子孫様より沢山頂いたあの人この人の若き日の写真が、佐賀出身者と同期海兵15期が多かったので、一体どういう関係なのかな?と思っていたのです。
まあ15期と18期なら、兵学校で顔を合わせていただろうし、位で。
あと柔道繋がりがあったかも?位で。
同郷の方であったのですね。


松村の父が佐賀出身の松村義櫢(よししげ)という人物だとも教えて頂きました。
漢字難しい…
櫢の字が初見で、どういう意味なのかと字通を調べたけれど掲載されていない。
字通で載ってないって一体。そんなことあるんか^^;

明治4年生まれの松村純一は、翌5年に父に伴われて上京したようだ、とのこと。
こちらも海軍義済会名簿に名前が出ていました。

最終階級が大尉、本籍地佐賀、明治17年10月8日に36歳で亡くなっている。
若い…
病気かと思いアジ歴を見ると、筑波艦で航海中の病死となっている。
こちらでは「十月二十八日病死致候」(11月20日 松村大尉病死御届/C10101535000)と海軍省に届けられていて、史料作成の年代と性質から正しいのはこちらでしょう。
義済会名簿、「2」を落としているのでは(15期の広さんを広さんと書き間違えていた所から、義済会名簿にはそこまで絶対の信頼を置かなくなっているのである。笑)。

明治17年、筑波艦で航海中に病没ですか…
……。
……………。
えっ?

明治17年、筑波で航海?


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ちょっと待て。
それは脚気実験のフネではないのか。

調べました。
脚気関係のファイル出してきました。
ビンゴ!
名前出てたわ。


脚気


画像大きすぎてすいません。
これ以上小さくすると文字が読めない…

松村義櫢大尉は筑波艦で行われる脚気病予防試験の委員に任命されています。
明治16年11月30日任命。
『明治期における脚気の歴史』の参考文献になっている『海軍脚気病予防事歴』も確認したのだけれど、


脚気


委員の名前が出てくる直前でコピー終わってた…
ちょっと…自分……
しかし気を取り直してデジコレで調べた所、既に公開されていました。


脚気


この筑波艦の航海は海兵11期の遠洋航海で、明治17年2月3日からニュージーランド、南米チリ、ハワイを経て11月16日品川帰着。
松村義櫢大尉の命日は明治17年10月28日であるので、帰国直前に亡くなったことになります。
さぞや無念であっただろう。


明治17年以前の海軍における脚気の状況は「日本人なら麦を喰え 海軍編」をどうぞ。
軍艦の艦長が釜を焚かなければならない位、当時の海軍ではバッタバッタと脚気で人が倒れていたのですよ。
その大惨事の起きた艦として挙がるのが前回名前を出した龍驤艦。
元々は熊本藩が政府に献上した軍艦です。
だからその一部が熊本城の天守閣に飾られていた。
なんだろう、前回脚気と書いたから脚気に繋がったのか、コレ。笑

脚気改善の突破口になったのが、この筑波艦での実験になります。
筑波の乗組員はこの実験に非常に熱心で、海軍がお金が掛かると渋るのを、龍驤と同じ経路で実験したいと言い出して、それを通している。
筑波艦=現場の調査委員は、艦長有地品之允、大尉松村義櫢、軍医青木忠橘と主計片岡直輝の4人。
松村大尉、この熱心者の一人であったと思われます。


この実験で脚気での死者は発生していません。
なので松村大尉の病没の原因は脚気ではない筈。
『海軍脚気病予防事歴』を見ると、84頁に「士官一名腸窒扶斯ニ罹リテ死没セリ」とあり、恐らくこれだと思う。
腸チフスで亡くなったようです。

少しググってみたら、松村義櫢大尉、青山霊園にお墓があるとのこと。
佐賀城本丸歴史館の「佐賀偉人伝」のブログに、墓所と墓碑が紹介されていました。
こちら、読んでいると死因は腸チフスではなく、「のちにこの結果は「脚気1名」と訂正されましたた」とある。
あ?そうなん?
参考文献に上がっていた『軍鑑「筑波」―偉大なる航海―』(岡本健)に

後日の海軍医事報告撮要にはチリのコキンボからハワイまでの航海で「脚気 1 名あり」と記載されている

とある。
そうなんだ。
ちょっとその『海軍医事報告撮要』とやらを確認したいのだけれど、いつの報告か分からない。
デジコレで出ているのは明治25年以後で、見た限りではそういった目次はなく、それ以前の出版のものだと思う。
実験が明治17年なので、明治18、19年あたりのものだろう。


葬儀は明治17年11月18日、青山霊園にて行われています。
長男松村純一により「故松村義櫢葬式ニ付上請」という文書が前日に書かれていて(文書中”佐賀県士族”と書かれている)、これは海軍葬を要請する内容(故松村義櫢海軍大尉会葬式施行許可相成度件 聞届/C11019235400)。

宛先はないのだけれど、筑波艦長有地品之允に渡され、東海鎮守府長官中牟田倉之助が副申(参考意見)をつけ、海軍卿川村純義の手元に。
海軍葬は許可され、軍楽隊が派遣されている。
海軍葬どころか、筑波艦の実験で脚気をほぼ撲滅できた海軍としては、感謝してもしたりない士官のひとりであったのではないかと思います。私としては。


正直、ここまで話が広がるとは思わなかったので驚いてしまいました。
知らないだけで、本当に沢山の人物がひとつの組織を支えているのですね…
そして本当に沢山の人生があるのだと思います。
青山霊園、今度広瀬武夫のお墓参りに行く時に探します。
是非お参りしたい…

落ち穂拾い(2)

明治初期の政治家や軍人、また地方から出てきたその地方の出世頭なんかは屋敷に書生を住まわせて世話をしていたけれど、江藤もまたそのひとり。

江藤新平が世話をした若者の中に福島安正がいます。
日露戦争で児玉源太郎直下の情報参謀であった福島、作戦担当の松川敏胤、兵站担当の井口省吾らとはちょっと毛色の違う参謀で、そもそもは軍人ではなかった。

維新頃から語学の勉強をしていました。
明治4・5年頃に学んでいた先は松本順(良順)の蘭疇学社(洋学校、西洋式病院)で、蘭疇は松本の号になります。
そこでドイツ人の学長を助けて翻訳に従事しており、終いには教授か何かに引き抜かれている優秀な人物であったようです。

ただ国許の経済的事情がそれを許さず、すわ帰国かとなった時に、この学長が司法省のお雇い外国人に相談、そのお雇い外国人が更に上司である司法卿江藤新平に相談した所、

「家に来たら?」

えとう…!いいひと…!
とは言え、江藤の息子ふたりと義弟が蘭疇学社に通っていて、江藤も福島のことを全く知らないという訳でもなかったようです。

江藤は子供に英国人家庭教師もつけていたので、福島にはその通訳を依頼した。
江藤が言うには、傍らでその英国人について勉強すればいいし、それなら福島にも益があるだろうと。
その上経済的な理由があるのならそれも何とかしてあげようと斡旋された職場が司法省。
翻訳で司法省出仕となり、その際の上司が江藤に相談したお雇い外国人です。


江藤は若い頃苦学しています。
父親の失職により城下から離れた小城に住居したり、酷い経済的困窮の中で苦労して勉強しているので、多くの書生の面倒を見ていたのはそうした事もあったのではないかと思う。
福島もその一例であったでしょう。

江藤家、如何にもといった感じの「先生と書生たち」ではなかったようで、かなりアットホームであったみたい。
屋敷の者から江藤の息子が「若様」と呼ばれるのを聞いて、
「馬鹿様みたいやな」
とかいう書生がどこにおる。笑
江藤、それ聞いて笑ってるだけやし。笑


僅か4・5年でわが国の法政体系を纏め上げてしまったキレッキレの切れ者が、実は大変馬鹿正直とか、とっても涙脆いとか、処世術が一切抜け落ちているとか、江藤のそういう純粋な所が大好きなのだけれど、後ろからタイトロープを渡っている姿を見ているようで、明治のたった数年なのに時代が下るほど「累卵の危うき」という言葉を思い出さずにはいられない。

佐賀の乱、江藤が本気であったらばあんな緻密な頭の人が、あんなに杜撰なことをせず、あんな最期を迎えずに済んだのではと思う。
しかしながら、地元での挙兵を鎮撫出来ても出来なくても、下野しただけですんでも、それ以前に下野せずにすんでいたとしても、結局は大久保利通によって社会的にか、物理的にか、抹殺されていたのではないかと思う。
権謀術数ではそれぐらいの力量の開きがある。


佐賀城
(佐賀の乱の舞台になった佐賀城。門に弾痕が残っている)


ステイツマン…ではない気がするなあ…
かといってスタッフなんて小物でもない。
国家のグランドデザインのプランナーというのが、江藤にはしっくり来るのではないかな。
ただそのグランドデザインの方向が大久保と異なるというのが、一番の問題であった訳で。

大久保にとっての江藤は脅威であっただろうと思います。
佐賀の乱の処理のえげつなさがそれを物語っている。
大久保のことも好きなのだけれど、大久保が江藤にした一連の仕打ちは、これだけは本当に目を背けたくなる。
いくら政治的意図があると言っても、数か月前まで同僚であった人間の晒し首の写真を、どうして各役所の壁に掛けることが出来るのか。普通に人間性を疑う。

そしてその反面、ここまで出来ないと混乱した時期の政治家になんてなれないのだろうとも思うのですね。
理想論や綺麗事だけじゃあ、無理だろう。
それに大久保が江藤にした以上の仕打ちなんて、それ以前の歴史では掃いて捨てるほどあるのがそれを証明している。

落ち穂拾い

佐賀に行った時に向井弥一の本籍地に行ってきました。
今回、佐賀海軍に辿り着くのは無理かなと思いながらの佐賀行きであったのだけれど、まあそんな感じになった。笑
滞在2日目の夜が雨になってしまったので県立図書館行きは断念。
下調べしていた段階で大して資料がある感じでもなさそうだなとは思っていたのだけれど、行く気ではいたのよう。温泉行くついでに。
6時前だったし結構疲れてたし日傘しかないし図書館まで距離もあったし。
ちょっと残念だなと思いながらもあっさり諦めた。


明治の海軍には佐賀出身者がとても多くて、向井はその中のひとり。
中牟田倉之助、江藤淳の祖父江頭安太郎や、秋山真之の同期森山慶三郎、安保清種や百武三郎など、かなりの数に上ります。

向井は広瀬武夫と同期で海軍兵学校15期。
真直、まっすぐな人であった印象。
大正初期の海軍の収賄事件であるシーメンス事件後の人事を見ていたのが当時実質的な人事局長であった向井で、こういう向井でなければ難しかっただろうという部下談がある。
確か斎藤七五郎だったと思う。
15期のクラスヘッド財部彪が、山本権兵衛長女との縁談について真っ先に相談したのがこの向井と広瀬でした。

一昨年、佐賀に行くつもりで旅行準備をしていた際に、佐賀の向井縁の地ということで御子孫様より向井の本籍地を教えて頂いたのです。
佐賀城より近くもなく、遠くもなく。
とは言え昔の感覚から言うと近い方かな?
向井は下級士族の出ですので、周囲にも同様の身分の武士の家があったかと思います。
県立図書館に古地図があったら見たいなと思っていたので、これが少し残念だった。


向井弥一


で、この向井ちゃんの父の従兄弟が江藤新平なのですね。
知った時は本当に驚きました。
好きな人物同士が繋がっていると知った時の喜び!(笑)しかも親族。
慶応3年生まれの向井、ぎりぎりで江藤に会う機会もあったのではと思うけれど、無かったみたい。
話を聞いたことしかないようです。
まあ江藤は向井の顔くらいは見てるかもしれんけど。

明治7(1874)年、風雲急を告ぐ佐賀に帰った江藤新平ですが、江藤自身が兵を挙げる事は考えていませんでした。
決起に逸る青年たちの鎮撫のためで、江藤が本当に挙兵するつもりであったら、あんな緻密な頭の人が、あんなに杜撰なことをせずに済んだと思う。 
大隈重信も「江藤が本気だったらあんなへまはしない」といったようなことを言っていて、これは本当にそうだと思う。

佐賀の乱は、江藤を頭として佐賀士族が一丸となったのかと言われるとそうではなく、
征韓党 江藤新平(←地元の若い子が勝手に決めた
憂国党 島義勇(←地元の保守派が祭り上げた感じ
中立党 前山清一郎(←上記どちらにも入りそびれた人が祭り上げた感じ
の三派に分かれ、中立党は文字通り中立、征韓憂国どちらにも就かなかった。
就かなかったけれども政府軍に内応しています。


宗龍寺@佐賀 
(中立党が発党された宗龍寺)


前山清一郎は戊辰戦争で殊勲のあった人物で、佐賀藩士としては功績第一等でした。
ただこの時、政府軍側で戦ったことで「裏切り者」とされ、佐賀にいることにいたたまれなくなり一族あげて千葉の八街に移住している。

この前山清一郎の三男が中山忠三郎という人物で、海軍兵学校15期になります。

海兵15期。
マジか…
15期を調べていて驚くことは色々とあったのだけれど、向井と中山の親族関係がトップクラスでした。
このふたり、何も痼はなかったのだろうか。
無かったというには、親世代の話なので時間が近すぎる…

15期は総勢80人、その内の12人が佐賀出身者(本籍地)になります。
当時の海兵生徒は士族出身者が多く、家族や親戚が佐賀の乱に関わっているという人、向井や中山の他にもいたと思う。

これ…何もなかったのかな…
養子先の中山を名乗っているだけでも大分違うと思うし、同期の絆は血よりも濃いと言うけれど、どうだったんだろう。
これはふたりの事を調べてからずっと疑問というか、気になっている事でもある。
お互いがどう思っていたかなんて、当事者にしか分かり得ないことだから答えなんて出ないだろうけど。

向井に関して言うと、若い頃から精神の修養を心掛けていたようで、その上恐らく怒りを持続する性格ではないので(しかも江藤には会ったこともない)、親世代の話はあまり関係なくさっぱり付き合っていたんじゃないかなと想像しているのですが。

インパール

NHKスペシャルの「戦慄の記録 インパール作戦」を見ました。
祖父はこういう戦場で戦ったのだと途中から涙が出てきて堪らなかった。
「戦争の事なんてなにひとつ話さなかったけど、こんなの話せる訳がない」
と母が隣で号泣しておりました。
書籍で読むのと、現場の様子を見たり聞いたりするのとでは、肌で感じる具合が全然違う。

見ていて驚いたのは、祖父と同じ部隊にいた方がまだご存命であったこと。
第31師団、通称烈兵団の山砲兵第31連隊。
しかも上等兵とのことで、祖父と全く同じ立場である。
手榴弾持って戦車に飛び込めって、それがギリギリのところで助かったって。
私の祖父も勿論この方と同じ立場だっただろう。
爺ちゃん、そんな所にいたんだね…

生きている方の証言を取れるのはもうこの1・2年が限界でしょう。
NHK、頑張ってあちこちで話を聞いて来てくれ。
それに斎藤と仰る当時少尉の方の日記と証言、よく見つけて撮ってきましたね…

(兵隊を5千殺せばここは落とせる等と平気で口にする高級将校らの姿を見て)
日本の軍隊の上層部が考える兵隊なんてそんなもん
その内実を知ってしまうと辛い

そう吐き捨てる様に言って泣いておられる姿が胸に迫りました。
本当にね…
牟田口や辻政信がやっている事なんて鬼畜の所業としか思えない。


20170815_2


折しも叔母に送付を依頼していた祖父の連隊史が到着した所だったのだ。
本当にしんどいけど(精神的に)、頑張って調べようと決意新た。
祖父の為にも祖父の戦友の為にも、話されなかったから知らなかった、で終わらせていい話ではないと思うから。


20170815_1


そしてお盆が終わりました。
今年も例年同様お仏壇にお膳をあげておりました。
13、14、15日の3日間。
13日は早朝に近所の川までご先祖さんを迎えに行って、15日の夕方にお供えしていたお花やお供え物と一緒に送りに行く。

お膳は宗派によるそうです。
家は真言。母の実家は浄土真宗ですが、こういうのはなかったとのこと。
へー、そうなの。

ちなみにお膳の後ろに見えているのは自家製梅干しです。笑
三日三晩干すという、最後の日に雨である。あーあー

ダイバーシティ こぼれ話(3)

え?3?
という感じですが、3ですん。
2は昨日までの昭和天皇の周辺の話です(と言い張る)。

「ダイバーシティ」を書き終えてから『昭和天皇の時代』(文芸春秋編・出版/1989)という本を見つけてしまったのだった…
オムニバスで、昭和天皇に関する回顧などが掲載されている書籍。
前に紹介した足立たかの回想もこちらから引用したのですが、後藤武男の「天皇外遊と三人男」が収録されていて、これもう少し早く知りたかった…
あーあ…(笑

後藤については、「ダイバーシティ(4)-3」で名前を出しました。
時事新報の記者で大正10年の皇太子御外遊の際、その殆どの行程に随伴している人物です。


昭和天皇、竹下勇、沢田節蔵 
エッフェル塔からパリを見下ろす。
左端から設計者のエッフェルさん、竹下君、殿下、殿下にチョコレートの食べ過ぎを注意した沢田さん。


皇太子がエッフェル塔を見学に行った際、山本信次郎にお土産を買っておいてと頼む場面があります。
しかしながら山本も傍にいた人も手持ちが足りず、財布を持っておらず…
困り果てた時に後藤が持っていた(会社の)お金を借りている。

皇太子が買い物に出掛ける時に一緒に車に乗せてもらったり、名前も覚えられていて、
「新聞記者は大変だね」
と何度か声を懸けられたそうです。

皇太子外遊の話については、サイトで掲載した所なので詳細はここでは触れません。
そっち読んで(丸投げー
サイトの方は外遊の行路、皇太子のテーブルマナーが非常にまずかった旨を書きましたが、その辺りの話が出ていました。


この無格好のマンナーをながめて、びっくりしたのが、御用掛として供奉してきた海軍大佐山本信次郎であった。
彼は断然皇太子の無作法を改めさせようと決心したのである。
彼はこの午餐会(※土原註:御召艦香取での高級士官とのランチ)が終わってから、早速皇太子を別室におよびして、ヨーロッパ・マンナーを教え込むことにした。
<略>

皇太子は「アア、ソウ」と喜んで学んだ。
山本大佐はそれから食事のたびに、皇太子の様子を傍にいてながめていた。そして、もう少しでもマンナーに反するような節があったら、食後必ず厳重に注意してあげた。


山本信次郎 


山本大佐は艦内でフランス語を教える役だった。
皇太子はフランス語の発音が下手だったので、皇太子が泣顔をされるまで叱った。
「そんなフランス語は通じません」
と無遠慮に申上げた。

山本大佐は今まで皇太子にはれ物にさわるようにしていた宮内省の役人と反対に、ビシビシと仕込むことに決心したのである。


マンナーを教えていたそうです。マンナー(しつこい
迪宮裕仁親王、川村家に里子に出された時は「自分の孫と思え、遠慮するな」と言われ、乃木希典にも生活態度からして甘やかされないよう教育されてきました。
この時位までは迪宮の立場を忖度して特別視しないように、と配慮されていたようです。

ただ東宮御学問所の辺りからか、皇太子に勝ってはならない、皇太子に1番は譲る、という様になっていた様子。
周囲の御学友はそう言い含められていた。

またこの後藤の回顧を見ると、東郷平八郎と珍田捨巳は、皇太子の日常生活については極めて無指導だったという意見を書いていて、これはひとつの意見としてありだな、と思いました。
ただ珍田が皇太子と関わったのは外遊の時からなので、その前任者、浜尾新だろう。
というか皇太子の日常生活云々は、御学問所総裁の東郷でなくて、東宮大夫の浜尾新の管轄だろう。



シンガポールにつくまで、軍艦の甲板ではデッキゴルフをされた。
多くの宮内省や高級士官たちは、皇太子のためにわざと負けてやっていた。
皇太子は自分はいつも勝つものだと思うていた。
これは皇太子を誤まらしめるものだと、御用掛西園寺八郎と山本大佐は感じたのである。


西園寺八郎は西園寺公望の養嗣子です。
実父は長州藩最後の藩主である毛利元徳。
皇太子外遊を推進した若手式部官で、外遊直前に外遊に反対する人間に襲撃されております。


デッキゴルフをするとき、西園寺と山本は、皇太子をどしどし攻め立てた。
皇太子は二人に向ってとても勝てなかった。
西園寺は皇太子に柔道の相手をしていた。
宮内省の他の人々は、皇太子を投げるものが一人もいなかった。
皆で負けてやっていたのである。

西園寺は皇太子をドシンドシンと投げつけてしまった。
若い皇太子は
「もう、西園寺御免だよ」
と悲鳴をあげたのである。


西園寺八郎、小松輝久、山本信次郎、漢那憲和
@香取甲板。漢那憲和(兵27)は御召観香取の艦長


ビリヤードでも西園寺、山本のふたりは、皇太子を容赦なくやっつけた。
ポーカーやトランプには二荒芳徳伯も加わったが、この人もお座なりに負けて上げるということを決してしない人物である。
どうかして、皇太子に、自己を発見させ、自己の信念を強めるようにさせ、自己の創意を生かすように努めさせるのに苦心した。


山本信次郎、西園寺八郎、二荒芳徳、竹下勇、奈良武次


軍艦生活の中に、皇太子の個性の発展に、非常に苦心したのは、実に西園寺、山本、二荒の人々であった。
彼等は皇太子の真の補導役になり、友になり、父親のようにもなって導いたのである。
皇太子もこの三人を尊敬もし、師事もし、よく言うことをきかれた。

私は帰国してからも、これらの人々を、「皇太子の三人男」と呼んだのであった。


当時20歳の皇太子にとって、この軍艦生活は結構なカルチャーショックであったのではないかと思います。
人を見る目や、価値観なんかが色々と変りそう…
ただ若い頃にこういう人達が傍にいたというのは、非常に幸せなことだと思います。
そして後年の昭和天皇のこの回顧に繋がるのですね。


昭和十二、三年頃までに、外遊の三人男は、ことごとく死んだり、宮内省を去ってしまった。
天皇と膝詰めで話をしたり、戯談(じょうだん)を言って腹から笑わしたりするものもなくなってしまった。
三人男に代わるのに、近衛文麿や木戸幸一などが君側の臣となったが、近衛、木戸でも西園寺八郎や山本信次郎ほどの親しみは、天皇にはなかったのではないかと思う。

私は天皇にとって西園寺や山本がいかに大切な男であるかを痛感したのであったが、惜しいかな、彼らは早く世を去ってしまった。


官の側からでない、多少関わりのあった民間人の意見として、興味深い見方だと思います。


***


これにてダイバーシティのこぼれ話は終了です。
ここまでお付き合い頂きましてありがとうございました。
疲れたー(笑
Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)