Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

落ち穂拾い

佐賀に行った時に向井弥一の本籍地に行ってきました。
今回、佐賀海軍に辿り着くのは無理かなと思いながらの佐賀行きであったのだけれど、まあそんな感じになった。笑
滞在2日目の夜が雨になってしまったので県立図書館行きは断念。
下調べしていた段階で大して資料がある感じでもなさそうだなとは思っていたのだけれど、行く気ではいたのよう。温泉行くついでに。
6時前だったし結構疲れてたし日傘しかないし図書館まで距離もあったし。
ちょっと残念だなと思いながらもあっさり諦めた。


明治の海軍には佐賀出身者がとても多くて、向井はその中のひとり。
中牟田倉之助、江藤淳の祖父江頭安太郎や、秋山真之の同期森山慶三郎、安保清種や百武三郎など、かなりの数に上ります。

向井は広瀬武夫と同期で海軍兵学校15期。
真直、まっすぐな人であった印象。
大正初期の海軍の収賄事件であるシーメンス事件後の人事を見ていたのが当時実質的な人事局長であった向井で、こういう向井でなければ難しかっただろうという部下談がある。
確か斎藤七五郎だったと思う。
15期のクラスヘッド財部彪が、山本権兵衛長女との縁談について真っ先に相談したのがこの向井と広瀬でした。

一昨年、佐賀に行くつもりで旅行準備をしていた際に、佐賀の向井縁の地ということで御子孫様より向井の本籍地を教えて頂いたのです。
佐賀城より近くもなく、遠くもなく。
とは言え昔の感覚から言うと近い方かな?
向井は下級士族の出ですので、周囲にも同様の身分の武士の家があったかと思います。
県立図書館に古地図があったら見たいなと思っていたので、これが少し残念だった。


向井弥一


で、この向井ちゃんの父の従兄弟が江藤新平なのですね。
知った時は本当に驚きました。
好きな人物同士が繋がっていると知った時の喜び!(笑)しかも親族。
慶応3年生まれの向井、ぎりぎりで江藤に会う機会もあったのではと思うけれど、無かったみたい。
話を聞いたことしかないようです。
まあ江藤は向井の顔くらいは見てるかもしれんけど。

明治7(1874)年、風雲急を告ぐ佐賀に帰った江藤新平ですが、江藤自身が兵を挙げる事は考えていませんでした。
決起に逸る青年たちの鎮撫のためで、江藤が本当に挙兵するつもりであったら、あんな緻密な頭の人が、あんなに杜撰なことをせずに済んだと思う。 
大隈重信も「江藤が本気だったらあんなへまはしない」といったようなことを言っていて、これは本当にそうだと思う。

佐賀の乱は、江藤を頭として佐賀士族が一丸となったのかと言われるとそうではなく、
征韓党 江藤新平(←地元の若い子が勝手に決めた
憂国党 島義勇(←地元の保守派が祭り上げた感じ
中立党 前山清一郎(←上記どちらにも入りそびれた人が祭り上げた感じ
の三派に分かれ、中立党は文字通り中立、征韓憂国どちらにも就かなかった。
就かなかったけれども政府軍に内応しています。


宗龍寺@佐賀 
(中立党が発党された宗龍寺)


前山清一郎は戊辰戦争で殊勲のあった人物で、佐賀藩士としては功績第一等でした。
ただこの時、政府軍側で戦ったことで「裏切り者」とされ、佐賀にいることにいたたまれなくなり一族あげて千葉の八街に移住している。

この前山清一郎の三男が中山忠三郎という人物で、海軍兵学校15期になります。

海兵15期。
マジか…
15期を調べていて驚くことは色々とあったのだけれど、向井と中山の親族関係がトップクラスでした。
このふたり、何も痼はなかったのだろうか。
無かったというには、親世代の話なので時間が近すぎる…

15期は総勢80人、その内の12人が佐賀出身者(本籍地)になります。
当時の海兵生徒は士族出身者が多く、家族や親戚が佐賀の乱に関わっているという人、向井や中山の他にもいたと思う。

これ…何もなかったのかな…
養子先の中山を名乗っているだけでも大分違うと思うし、同期の絆は血よりも濃いと言うけれど、どうだったんだろう。
これはふたりの事を調べてからずっと疑問というか、気になっている事でもある。
お互いがどう思っていたかなんて、当事者にしか分かり得ないことだから答えなんて出ないだろうけど。

向井に関して言うと、若い頃から精神の修養を心掛けていたようで、その上恐らく怒りを持続する性格ではないので(しかも江藤には会ったこともない)、親世代の話はあまり関係なくさっぱり付き合っていたんじゃないかなと想像しているのですが。

財部日記 第2弾

帰ってきた。
え、何処からという感じですが広瀬武夫の勉強会@東京に行ってきたー。
色々お話しを伺ってきましたぞ!
皆さん熱い方ばかりで私場違いだったんじゃないかと心配。
迷惑ではなかっただろうか。
 
そして頂き物!


グッズ 


クリアファイル(竹田市の)とサクマドロップ。
ビスコとチロルチョコがカスタマイズできるのは知っていたのですが、サクマドロップまでとは…(笑

午前は国会図書館に行ってきました。
引き続き財部日記を見てきた。
今回はあんまり収穫はなかったのだけれど、ぺらぺら見ていてたら、


財部日記 


お?と。
伊木壮次郎の話が出ていた。
明治28年7月11日条で、病気で加療のため鹿児島の自宅に帰っているという話を聞いて吃驚とある。
以前書いた諜報のことと関係あるのかなあとも思うのだけれど、さすがに1年前…
否定するのも肯定するのも微妙だわあ…


あとここ。


財部日記


財部の結婚式当日の日記。
薄すぎて読めないよ!でも広瀬って書いてある(※根性)
この日ともう1日について、職員の方と交渉したら、本当に特例ですよって現物を見せてもらえた…!

B6サイズほどの小さい日記帳だったよ。
そこにめっちゃ細かい字で書いてあるの。明治30(1897)年、119年前の日記。
上写真の薄い所は青の万年筆っぽく、急に濃くなっている後半部分は毛筆。なぜ。

もう1日の薄いところは、鉛筆(きっと先の丸まったやつ)でした…
職員の方に「これは読めないですね」と言わしめた!(笑)

上写真の話は、広瀬とあるから、向井弥一の名前も出てくるのかと思ったのだけれど、そうではなかった。笑
巳丑会(クラス会)のみんなで何か贈るから、何が欲しい?ということを広瀬が代表して聞いてきたという内容。
置時計か、盃か、花瓶のどれかがいいと返事したんですって。

閻魔(2)

明日、大分県竹田市にある広瀬神社の例大祭です。
残念ながら今年も欠席で返信をしたのですが、先月の地震でお見舞いの電話をした際の御礼状が返ってきた。
神社の社務所では多少物が落ちた程度で家具が倒れる等の事もなく、記念館の方も特には被害も出ていなかったようで(岩盤の上に建っているので地盤がしっかりしているらしい)。
ただ神社の狛犬がずれて片足程が台座からはみ出していたようですが。
お伺いする限りでは最小限の被害で済んだようで、本当にホッとしました。
明日は晴れたらいいですねえ。
広瀬は晴れ男っぽいから大丈夫そうだ(妄想)(笑


***


昨日の続き。
海兵15期、高木七太郎大王ですが、どうも評判が芳しからぬ。
島田繁太郎の話では、機嫌のいい時はいいのだけれど悪い時はそっぽを向いて話も聞いてくれない、だとか…
結構な方法で部下を叱責することがあったようで、副長を望遠鏡で殴りつけたとか、当直将校を叱責したとか。
多くの部下の面前で機関長を難詰するということもあったそうです。
私(わたくし)の都合で人を動かすことも、『海軍生活放談』を読んでいる限りではかなりあったのではないかと思われる。

素人目から見てもこんな様子で部下の統率が出来るのかと思うのだけれど、やっぱり諸所に不都合が出ていた模様。


士官室士官は艦長から離れ、次室士官は士官室と折り合いが悪く、兵科と機関科の間もしっくりとは行かなかった。
これは当然の帰結であり、大正四年度の比叡の各種成績は、芳しいものではなかった。
<略>


日本海軍も既に三〇年近くの歴史を持ち、日清、日露の戦役を経験して来たのであるが、大正初期には高木大王式の統率法が尚残存していたのである。<略>
大王に部下統率の確乎たる信念があったとは思わない。
強いて言えば、圧服式である。
海軍刑法とか、懲罰令というようなものを背景とし、威圧に終始していた。<略>
尤も、この威圧、圧服の方法は比叡に限ったことではなかった。


ふーんと思ってさ。
残念ながら、高木は本当に評判が悪かったのだと思う。
部下の面目を丸潰れにするような叱責の仕方だとか、納得させられないような人の使い方だとかは、文章を読んでいるだけでもちょっとどうだろうと感じてしまう。
当事者だったら余計に反感を持つだろう。


ただこの本の上記引用の件を読んでいて思い出したのが「追憶(3)」のオマケで書いた笠置のガンルームの話。
威圧的な上司とそれに反発する部下。

比叡に限ったことではなかった」とあるように、何処でも同じような問題が起こっていたのではないかなあ。
それが克服できたかどうかは、個人の資質に依っただろうけど。
比叡の場合は高木個人の問題も多々あったと思うのですが、ジェネレーションギャップもかなり影響していたのでは?という気がする。


勉強していて、日露戦争の前(明治30年代)と後(40年代)では生活、世相、社会状況等その他諸々に於て隔世の感があるように感じます。
大正4(1915)年だと余計だろうなとは思うのですが、それでも日露戦争(1904~5)からまだ10年ほどしか経っていないのですよね。
海軍という狭い同一組織の中でもここまで温度差が出てくるかと、そこに若干の驚きを感じます。
まあ日露戦争前でも同様の問題は起こっていただろうとは思いますけれども。

読んでいてちょっと面白い話でした。


***


ジゴロウさんへ ( ・ω・)⊃ 『山川浩
 著者が甥。国会図書館にも所蔵がないそうです。5/30まで予約可能

objectさんへ( ・ω・)⊃ 「海軍文庫開設 記憶伝える 下関の増冨さん
 海兵在校中に敗戦を迎えられた方だそうです


すでにご存知でしたらご放念ください。

閻魔

以前紹介した『海軍思い出すまま』を借りていた際、同時に『海軍生活放談』(原書房/1979)も借りていた。
他館貸出しになってしまった為、手元に来た時には何が理由で読みたかったのか分からなくなっていたっちゅう…
いつものことですね。そうですね。

著者は大西新蔵、最終が海軍中将で海兵42期。
ホームベースが明治大正の私は全然存じ上げないテートクである。申し訳ない。
この方の自伝的な読物でした。

あんまり真面目に読む気力がなくて(すまぬ…)、飛ばし読み、斜め読みもいい所だったのですが、人事の話が面白かったです。
同時並行で目を通していた『海軍思い出すまま』にも人事の話があったので、読み比べで余計に面白かった。
これはまた後日。

この本であらーんと思ったのがですね、海兵15期が出て来とったのですよ。
おー!しかもかなりの紙片を割いて触れられている!
題して「高木大王物語」。
…おー…た、高木か…大王か…
この時点で余りいい予感はしない。笑

覚えていらっしゃる方はそう多くはないと思いますが、高木の名前は今まで何度か触れています。
日露戦争時には大本営海軍部にいた人物で、財部彪の日記にも結構名前が出てくる。
昨年「追憶」(秋山真之)という話を連載をした際には島田繁太郎の人物評を少しですが紹介しました。
下僚からはかなり評判の悪い人物であったようなのですね(追憶+α
で、そこへ来ての「高木大王物語」ですよ。

大西は遠洋航海後の大正4(1915)年に比叡に配乗されている。
当時の比叡艦長が高木七太郎大佐。
大西曰く「偉大な体格、グロな面貌」。


 (日露戦後の集合写真)


写真後列 左から高木、同期の永田泰次郎、江頭安太郎、舟越楫四郎、木佐木幸輔
前列 左から、片岡七郎、出羽重遠、斎藤実、山下源太郎

以前向井弥一のご子孫様よりもっと後年の高木の写真を頂いていて、それを見ると上の写真よりかなり太っている。
見た感じとしては首がない^^;


ビールは初の方を棄て、真中だけを飲み、底の方は飲まなかったという。
京都嵯峨の大呉服商の息子とかで、軍服は立派な服地を用い、ワイシャツは常に真白で洗濯したてのものであった。(略)
大王は肥満の故もあるが頸部が短く、軍服の襟のフックをいつでも外していた。


入浴時には従僕と従卒が二人掛で背中を流し、食卓には蓋物を三つ四つ欠かさず、上陸してはハーフと遊んでしたそうで。
…け、結構な言われ方である。笑
実家が京都の呉服商というのは何かで読んだことがあるのです。何でかは覚えてない。
とにかく良い所のボンボンだったらしい。
そんな人が何故軍人になったのだろうというのが私の素朴な疑問。


変なところで切れますが、続きます。

今日の財部日記(10) 伊木壮次郎6

日本郵船ウラジオストク支店開設が明治29(1898)年4月。
ウラジオに派遣されていた伊木壮次郎が一時帰国したのが明治29年6月(伊木壮次郎2)。
再度ウラジオに派遣ということで、無記名パスポートが申請されたのが同年9月11日。

②9/11 玉利軍令部副官→三須人事課長 (伊木壮次郎2参照)
海軍大尉伊木壮次郎嘗テ秘密御用ヲ以テ露領浦潮斯徳ヘ出張ノ処
去ル六月命ニ依リ帰朝之際旅行券ハ同所貿易事務官ニ於テ取リ上ケ相成候
就テハ今般ハ用済再ヒ同地ヘ出発致候ニ付 <以下略>


そもそも官民問わずウラジオにあった出先機関は軍事スパイのたまり場だったんじゃない?^^;


上引用の2行目に「貿易事務官」とありますが、ウラジオの貿易事務官といえばかなり馴染みのある名前も出てきます。
それが外務省の川上俊彦(かわかみとしつね)。

経歴を見ると、明治23~24年に浦潮港貿易事務官として勤務、25年に公使館書記生としてロシア在勤。
33年からまたウラジオの貿易事務官。
日露戦争前日本はウラジオに領事館を置くことが許されておらず、代わりに置かれていたのが貿易事務館になります。

ロシア駐在を終えた広瀬武夫がシベリアを横断してウラジオまで辿り着きますが、その時に滞在したのが川上の家でした。
川上は忙しかったようで、主に新妻常盤ちゃん(※結婚1年目)が広瀬の接待をしていた。
常盤ちゃん広瀬にスマートにエスコートされたりして(マジか)、危ない所を助けてもらったり、この人は自分の守護天使か何かかと思ったらしいよ。けっ(こら
3人で写っている写真もあります。サイトに転がってますのでよかったら探して(丸投げー

日露戦争中は満州軍総司令部附になったりしている。
そして有名な写真がこれ。





後列左端。
乃木希典とステッセルの水師営の会見の通訳をした人物です。
また伊藤博文が暗殺された際も側におりまして、流れ弾にあたっている。

川上は戦後に海軍から表彰されているのですが、その理由がウラジオ地域における諜報活動(明治30年代)。
日露戦争直前のロシア太平洋艦隊の動静についてだったり、ウラジオ軍港の要塞の状況を諜報員を使って情報収集していた。
海軍はこういう事が余り得意でなかったのか、外務省に頼むことが多かったみたいですね。
陸軍は自前でやってるんだけど…

こういうこともあって、川上、伊木壮次郎の事を知っていたのじゃないかと想像。
明治29年時点で川上がロシアいたのか、ちょっとわからないのですが、それでも名前くらいは知っていたのではないかしら。
手元に部分的にある川上の追悼録にはそういう話は勿論載ってはいないのですが。


 29年8月10日 海軍大尉伊木壮次郎転地療養の件
 29年9月11日 海軍大尉伊木壮次郎露領浦塩斯徳出張旅行券交付の件
 29年12月9日 海軍大尉伊木壮次郎転地療養願の件
 30年1月19日 海軍大尉正七位勲六等伊木壮次郎特旨進階ノ件

伊木のパスポート申請が9月11日で転地療養の申請が12月9日(伊木2)。
12月初旬にウラジオに渡っていたとして、亡くなったのが1月20日なら…

諜報活動で得られたもの、特にはなかったのではないのという気がする。
…外務省に頼んだ方が良かったのでは… (禁句
(『東亜先覚志士記伝』では1/20とありますが、実際には1/19だと思います)

伊木には壮之助という弟がおり、兄の非業の死を知って(どうやって…)台湾総督府勤めを辞め単身シベリアへ。
ロシア語を修めて、日露戦争時には第3軍のロシア語通訳になったとある(『東亜先覚志士記伝』)。
あら、ま。(乃木軍=第3軍…^^;
なんだか色んな所で接点が出てくる訳です。
世間狭くて恐ろしい。

伊木、ちょっと調べてみて思ったのは、石光真清的なニオイがするって所でしょうか…
要するにこれ、使い捨てじゃない?
派遣先で殉職しても公にできない職務に従事しているから、亡くなった理由も公表されない。
表彰もされない(ひょっとしたら恩賞もなかった可能性が…)。
他に海軍軍人でこういう職務に従事していた人っているのかしらと思うのだけれど。


伊木の訃報が入った時の記事、財部日記にはあるのではないかと思う。
ただ私が複写したのは明治30年3月からなのですね。くそう。
5月中旬に式を挙げた新婚の財部夫妻は墓参のために都城へ帰郷、その後鹿児島にも足を延ばしているのですが、

6月5日 夕知識氏ト同道故伊木壮次郎兄ノ墓ヲ訪フ
6月6日 午前来客ニ接シタル後喜入氏ト同道伊木氏ヲ訪ヒタリ
6月8日 伊木壮次郎君ノ墓ヲ詣ヅ

とある。
伊木氏を訪れたとありますが、実家だろう。
『東亜先覚志士記伝』の記述が確かなら当時伊木壮之助は台湾にいる筈なので、応対に出たのは親かその他兄弟かな。
日記には訪問時の内容は書かれていないけれど、どういう話がされたんでしょうねえ。


山本権兵衛長女との縁談が持ち込まれた時、財部はその場で即座に断った。
しかし話を持ってきた上村彦之丞はその後も中々納得してくれなくて、それを突っぱねるために同期の向井弥一や広瀬武夫を巻き込んで頑張る訳です。

権門より嫁を貰うのは平素よりの持論に反する。
答えるにしてもとりあえず伊木以下諸兄に一言する必要がある。

一旦引き取ってもらうために、そういうことを言い訳として言うのですね。
伊木はもう亡くなっているのですが、こういう時に一番に名前が挙がってくるというのはかなり仲が良かったのでしょう。

伊木の訃報、財部はどんな思いで聞いたんでしょうねえ。

Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)